May 2012

May 31, 2012

“毛沢東の最後のダンサー”



 邦題は「小さな村の小さなダンサー」ですが、やはり内容を考えると英題「Mao's Last Dancer」がふさわしいと思います。2009年制作、ブルース・ベレスフォード監督作品をDVDで観ました。実話をもとにしているからこそ、時代の趨勢、そして一人のアーティストの信念の強さを思わずにはいられません。

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 1972年、まだ毛沢東が存命していた頃。山東省の田舎の村へ、中央政府の役人が才能ある子どもを探しにやってくる。そのとき、先生の推薦で北京のバレエ学校へ幼くしていくことになったリー・ツンシン。最初は他の生徒についていけなかった彼も、ある先生の励ましを胸に鍛錬し(政治の時代、その先生はバレエの芸術性を第一に唱える余り政治犯として学校を辞めさせられる)、いつしかその学校を代表する研究生としてヒューストンのバレエ団に期間限定で入る。

 当初は“資本主義”的生活に慣れなかった彼も、その才能をさらに開花させるにつれ、恋をし、その相手と結婚することによってグリーンカードを取得し、アメリカに残ることを決意する。しかし中国総領事並びに中国共産党がそれをやすやすと許すはずもなく、彼は亡命者扱いとされ、家族との音信を絶たれる。ソリストダンサーとしてバレエ団に残り、その苦しみをバレエに打ち込むことで忘れるかのような彼だったが…

 単に一人の少年がバレエダンサーとして成長していくお話とはわけが違います。米中の友好関係の下、米国に派遣された将来を嘱望されるダンサーが、故国を捨てる覚悟でダンサーの道を選ぶのですから。70年代から80年代の中国の体制変化があってこその作品でもあります。もちろん、リー・ツンシン役の学生・プロ時代ともに実際の中国出身のダンサーが演じ(ツァオ・チー、グオ・チャンウ)、バレエを鑑賞する意味でもこの作品は素晴らしいものです。ラストシーンの美しさと言ったら…。久しぶりに心から良い、と思える作品に出遭えました。

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May 29, 2012

お祝いに感謝



  きのう、誕生日でした。正直、もう収入や社会的地位を考えたら祝える状況ではないのですが、それでもお祝いしていただけるのはありがたいことです。昨晩は小学校からの幼なじみ。浅草橋で彼女行きつけの下町フレンチ(コンフォルターブル)でおいしかったです。楽しかったです。 お店の名前どおりに。

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  そして代休のきょうは、大切な友人が明大前まで来ていただきまして(彼女は文京区在住ですが、ちょうど隣の駅の代田橋で働いておりまして)、久しぶりに「うら通り」(7〜8年通う名店)で楽しく食事をさせていただきました。う〜〜ん。いろいろなお話をして、特に僕がしゃべりまして、本当にありがとうございます。ほんとにいろいろ。

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  幼なじみからはバラ一輪、友人からは激ウマな雷門・亀十のどら焼きを頂きました。感謝〜〜

  スマホじゃなくても、キレイに撮れました、よね??



May 27, 2012

「生きて償うこと」――光市母子殺害事件



 光市母子殺害事件の弁護団が再審請求の方針を固めたそうです。

 同事件について、僕は長いこと定見をもてませんでした(今も模索中ですが)。しかし数カ月前、以下の文章を読み、胸に落ちました。辛淑玉さんの『その手に乗ってはいけない!』(ちいさいなかま社、2008年)に掲載された一文です。


  「生きて償うこと」

  一九歳になるその若者は、夜尿症で、神経質で、仕事は長つづきせず、友だちといえるのは自分の車、中古のクラウンだけだった。暴走族のようにかっこよく走ることも突っぱることもできず、その周辺でたむろしてはいきがっていただけ。

  一週間まえに知りあったばかりの遊びなかま五人と金欲しさにカップルを襲い、連れまわして暴行、強姦を繰りかえしたあげく、首を絞めて殺してしまった。

  裁判所の記録では、どの若者も「殺すことはぜんぜん怖くなかった。殺すなと言うことのほうが怖かった。殺すなと言ったら、みんなから相手にされなくなるから」とも語っていた。

  一審で死刑が求刑された。彼は、裁判そのものもどうでもよくなった。母親には、「先に死ぬから」とも語った。

  殺人を犯した者の多くには、殺したことに対する罪の実感がない。同時に、自分の命への実感も欠如している。

  日本の死刑は絞首刑である。吊るされると、まず自分の体重で首の筋が切れ、軟骨が折れる。そのため、口から泡と血と舌が出てくる。からだのあちこちがプルプルと不規則な動きを見せる。その姿はまるで踊っているようだという。最後は、足がカタカタと鳴り、弓なりになって死亡する。死刑執行は、当日の朝になって初めて知らされる。彼らは、いつくるかもわからない死と隣あわせで収監されているのだ。

  二審が始まった。投げやりな当事者と、さっさと処理したい検察官の間で、弁護士がどなった。「(死刑という)人一人の命がかかっているんだ!」

  その言葉に、青年はハッとした。自分の命を、自分以上に思ってくれている人がいることを知ったのだ。

  長い裁判の結果、二審で死刑から無期懲役に減刑された。そのニュースは死刑囚のいる房にもラジオで流された。拍手が起きた。死刑囚はこまかい規則に縛られていて、決められた行動以外は許されない。拍手などすれば懲罰房に入れられる。しかし、拍手は鳴りやまなかったという。そのことを、移送される車の中で、青年は聞かされた。生きて罪を償ってくれ、という思いがこめられた生還への拍手だった。このとき拍手した人たちは、すでに全員が刑を執行されている。生きている者はいない。

  青年は、生きて被害者への謝罪をしつづけることを心に決めた。できることといえば、刑務所内で働いた賃金を送ること。しかし通信の許可はなかなか下りなかった。遺族は極刑を望んでいたからだ。

  数年が経って、ようやく手紙が許可され、青年は労賃を送りはじめた。

  刑務所での労賃は、一日働いて約三五円、一か月で九〇〇円程度にしかならない。それでもそれをせっせと貯めては、詫び状とともに送金しつづけた。

  数年後、遺族の父親から手紙がくるようになった。「寒い日が続いていますが、風邪を引かぬようがんばってください。あなたからのお金は前回同様、仏前に供えました」「……時折、刑務所内の放送を見ることがあります。大変だと思いますが、罪は罪としてそれに向かって、立派に更生してくれることを願っています。寒さに向かいますが、くれぐれも身体に気をつけてください」

  青年は、「私が生きているのが、本当に申し訳なく思います」と弁護士への手紙で語っている。

  被害者のことを思いつづけ、人間としての心を取り戻すことこそが謝罪なのだと思えてならない。そして、この遺族の父親からは、人間の寛容さという無限の可能性を感じる。どれほどの苦しみを経て、ここまでたどりついたのだろうか。

  カップルを殺したその青年は、今、山口県光市母子殺害事件の加害者と文通を始めた。女性とその子どもを殺害したこの痛ましい事件は、犯人の生育暦を抜きには語れない。父親のすさまじい暴力の結果、母親は自殺し、彼は一二歳で精神状態が止まったままなのだ。その彼が、たどたどしいことばではあるが、自らの思いを語りはじめたきっかけの一つがこの文通だった。

  多くの人が極刑を望むなか、司法がその空気に便乗して殺す(死刑にする)ことは簡単だ。しかし、事件がなぜ起きたのかという検証もなしに犯人を「始末」したところで、再発防止にはつながらない。私は、あらゆる犯罪は社会が生み出しているのだと思う。私たちの社会を変えないかぎり、被害は続く。

  生きるための切符を受けとった彼が、刑務所の中から、光市母子殺害事件の本当の闇を明らかにしようとしてくれているように感じられてならない。



  さまざまな人間の生き様を見て、体験してきた辛さんの言葉だからこそ、意味があります。贖罪とはなにか。宗教性などをもちださなくとも、この概念は人間性に大きくかかわります。人間が人間であることのなんたるか、の大きな試金石でしょう。

 僕はこの光市事件を考える際、「自分の母が殺されたら、その犯人を許せるか」と思いを巡らします。簡単には答えは出ません。そしてそれは想像であり、実体験ではありません。しかし、想像し、考え、悩むことがまず一歩だと考えます。ただ思うのは、処刑制度は、人間性への挑戦でもあるということです。


その手に乗ってはいけない!
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reversible_cogit at 21:16|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)書籍 | 政治経済

4号機の燃料集合体はヒロシマ原爆の4000発分



 プルト君が教えてくれました! これが我々の日常なのです。

四号炉くんの燃料プールには1535本の燃料集合体があり、ヒロシマ原爆の4000発分、チェルノブイリ原発事故の8倍の量、180万テラベクレルの放射能があるんだ!建屋はぶじだけど、この燃料プールはいまむき出しになっているんだよ!


<福島第1原発>4号機、プール底部を補強…事故後初公開
http://mainichi.jp/select/news/20120527k0000m040051000c.html

 公開された映像を見て、「震度6強の地震でも十分な安全性がある」って言われて、納得する建築関係者、科学者がどれだけいるでしょうか。あんな状態で6強が耐えられるなら、都内の建物は相当無事ってことですよね。

 また地震が起きたらそれまでよって、思ってるんでしょうね。



reversible_cogit at 14:15|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)政治経済 | 新聞

May 24, 2012

“去年、勝間さんが有名じゃなかった理由”



 北原みのり氏は、週刊金曜日(895号)の連載コラム(vol.45)でこう記す。

  
 そう言えば、いつの間にか「勝間和代」さんはいた。勝間さんが何を成し遂げた人なのか知らなかったが、すでに「有名人」として、そこにいた。

  私が読み、見聞きする勝間さんは、ぶれることのない人だった。常に淀みなく正解を出すことが誠意であると信じているかのように、突き進んできた。逡巡、という言葉は勝間さんから最も遠い。高齢の両親に育てられ、昭和の「がんばる」空気を真っ直ぐに受けた勝間さん。そういう姿勢が、混迷し低迷する時代に受けたのかもしれない。

 そんな勝間さんが書いた『「有名人になる」ということ』。勝間さん曰く。勝間さんは有名人になりたかったわけでもなく、また偶然有名になったわけでもない。自分を有名にするプロジェクトを成功させた結果、有名人になったのだという。

 勝間さんが言うならば、きっとそうなのだろう。実際に勝間さんは勝間さんのセオリー通りに動き、セオリー通りに有名人になったのだから。

 では、今、なぜ本書なのか。勝間さんはこう記す。
 
 「二〇一一年は、大型バイクや小型船舶一級の免許をとったり、趣味のスカッシュに集中して、この『有名人になる』ビジネスは少しお休みしました」。すると、あちこちで「勝間和代は終わった」と言われるようになってしまった。そこで勝間さんは決意する。

 「二〇一二年はもう一度、『有名人になる』ビジネスを再開したいなと考えます」と。

 私は勝間さんを誠実な人だと思っていた。だから、ちょっとドキドキする。嘘でしょ。勝間さん。まるで去年一年、自主的にお休みを取ったようにおっしゃるけど、そんなはずがない。勝間さんのように真面目で責任感が強い人が、二〇一一年という大変な年に、仕事を抑えてまでスカッシュはやらない。やりたいこと、いっぱいあったでしょ? 勝間さん、ただ、仕事が激減したんでしょ?

 3・11直後のテレビ討論で、勝間さんが「原発で誰も死んでいない。報道のされ具合と死者の多さのバランスが悪い」とコメントし問題になったのは記憶に新しい。中部電力のCMに出て原発を推進していたことから、勝間さんの原発に関する知識や発言に、信頼を置けなくなった。原発問題を機に、勝間さんから客が離れたのだと、私は認識している。

 本書で勝間さんは、当時の批判については一切触れていなかった。ただ有名人のリスクとして、不当なバッシングを受けると触れていた。

 「書かないこと」とは、「最も避けたい真実」である。一切触れていない“去年、勝間さんが有名じゃなかった理由”が、読めば読むほど気になる。本書の勝間さんは、弱く、小さい。気軽に楽しむ本かと思ったら、思いがけずに勝間さんの重さが迫ってきて、戸惑った。



 勝間氏が自ら休業したという言質に対する、「勝間さんのように真面目で責任感が強い人が、二〇一一年という大変な年に、仕事を抑えてまでスカッシュはやらない」という北原氏のコメントは、そこに潜む「最も避けたい真実」を浮き彫りにしているのだろう。

 きのう、人の栄枯盛衰について考えたけれど、間違いを犯したときこそその人の本性が顕在化し、信頼や浮沈は大きくかかわってくるのだと思う。勝間氏は、自らのブログで原発に対する発言に曲がりなりにも謝罪したけれど、結局、本来それについての真意をより詳しく書くべき場でそれをせず、有名税としての「不当なバッシング」に置き換えたのだ。だから北原氏は、「気軽に楽しむ本かと思ったら、思いがけずに勝間さんの重さが迫ってきて、戸惑った」のだろう。

 大人物に自分を比すのはおこがましいが、怖いことだな、と思う。自分はよく間違う。だからそれをしっかり認め、謝罪し、次に生かさねば、とこのコラムを読んで改めて痛感した。

毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記
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「有名人になる」ということ (ディスカヴァー携書)
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May 21, 2012

雲のヴェール、金環日蝕



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 中世だったら、「あ”ぁ!! 斑の肌の子どもが産まれる!!!」と叫んだかも。
 それにしても、幻想的で美しいですね(※自画自賛という意味ではなくて)。

reversible_cogit at 20:31|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)観光 

May 18, 2012

いちばん得難い“ふつう”




 映画「オスカー・ワイルド」で、ワイルド(スティーヴン・フライ)がある肖像画をさして、当時発明されたばかりの写真と比較し、肖像画はその人物の人生(過去)を写し取れるが、写真はそれができない、と得意満面に語るシーンがあります。

  たしかシネスイッチ銀座で観たと思うのですが、当時(1998年)はその言葉になるほど、と思っていました。しかし今、それは違う、と明確に思えるようになっています。様々な展覧会や個展を鑑賞し、あるいは写真に関する本を読み、それは19世紀における写真というものの社会的意義や技術と、現代の違いという視点がもちろんあって、くわえて様々な写真文化の試行錯誤や進歩があって、そう思えるのだと思います。

  ただ、そうしたことをつらつら考えなくても、たとえばきょう手にした、週刊金曜日・表2で連載されている写真コラム、齋藤陽道さんの「それでもそれでもそれでも 15 カップル」を目にするとき、被写体となったレズビアン・カップルの、これまでやこれからに思いを馳せることができると感じるのです。齋藤さんは様々なアングルを試した上で、いちばん“ふつう”に見えるショットを選んだと記しています。

 「同性のふたりがどうやって出会い、今この国で一緒にいることの思いや覚悟。それを知っていないのに特別な絵のようにしちゃいけなかった」。だから「風通し」のいい、「ふつうの写真」を目指した、と。同性愛者に限らず、障害者をふくめたマイノリティが、「この国」で一番得がたいのは“ふつう”であることだと、聾者である齋藤さんご自身が痛感しているのでは、と勝手に推察します。マイノリティが、“ふつう”に生きられないのが日本国。いちばん得難い“ふつう”。

 思えば、原子力発電所も、核燃サイクルも、沖縄米軍基地も、消費税も、ふつうに考えればおかしな存在なのに、それをふつうと思っている、思い込まされている国民で構成されているのがこの国です。否、この国でした、になりつつあるのか。だからこそ、マイノリティにとっての得難い“ふつう”が、括弧なしのふつうに早くなりますように。



感動
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May 17, 2012

有形無形の証し   DAYS JAPANフォトジャーナリズム展 2012



  新宿のコニカミノルタプラザで今月21日まで開催中、DAYS JAPANフォトジャーナリズム展を鑑賞しました。

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  リビア革命、パレスティナ問題から動物写真まで、様々な写真が展示されていましたが、やはり「3・11」をめぐる被災地の作品は、まざまざと自分自身にとっての「3・11」に思い巡らすものでした。
 
  また、木原浩勝氏主催の「新耳袋」で聴いた、被災地での“怪異”を思い出さずにはいられません。具体的にはネットで書かないお約束で聴いたお話なので書けませんが(木原さんのスタンスは、現地の人こそが語り継ぐべき、というもの)、犠牲者、被災者(生存者)、そして救援ボランティアの皆さんにかかわる体験談は、胸に迫るものばかりです。人が人を思うことはどういうことか。そして、人が非業の中で亡くなるとはどういうことか、考えざるをえません。

  こうした体験談と、報道写真を一緒くたに考えることに違和感を覚える方もいるでしょう。しかし、有形無形であろうと、大切にしなければならないと思います。その思いこそ、あの大震災の証しだと思うからです。決して、忘れてはいけない。そして今も続く。

reversible_cogit at 22:34|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)展覧会 | 政治経済

May 16, 2012

ウンコ映画  「貞子3D」



 仕事終わり、渋谷で「貞子3D」を観ました。ウンコ映画でした。観ながらもう呆れました。こんなものを有償でみせるのは詐欺なのではないか、と思わずにはいられませんでした。

  確かに期待はしていませんでした。しかし期待どころか、ウンコです、ウンコ。カス。これはホラー映画への冒涜であり、「リング」をはじめとするJホラーの失墜をかみ締めました。驚きのみを誘う無用な大きな音の多用、まったく信じられない展開の脚本、もうすべてがバラバラです。染谷将太が出演しているのですが、彼の俳優歴において大きな汚点とるでしょう。

  ホラー映画で重要なのは、派手な映像や大きな音ではなく、創造性です。人の恐怖を引き起こさせることは簡単ではありません。とりわけ「3・11」を経験した日本人にとって、どんな創造物より現実の恐怖が凌駕することを、地震や津波、原発爆発による放射性物質の汚染によって、身をもって生きているのからです。

  それなのに、こんなウンコ映画をホラーとして世に送り出すのは罪悪です。人間の創造性への侮辱です。角川映画は大いに反省し、過去の栄光の継承を真剣に熟慮すべきです。


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May 14, 2012

大飯原発再稼動報道にみるマスコミの情報操作



 TVにしろ、新聞にしろ、おおい町で原発再稼動に反対した唯一人の町議が、共産党の議員(猿橋巧議員。議会で最多7選)であることを決して伝えません。なぜなら、世論は原発再稼動に反対多数(JNNで55%)であり、つまり、おおい町で国民多数の意見を代弁しているのが共産党、ということになるからです。どの局も、新聞でも、反対が一人しかいないのに、

TBSニュース=「40年間の安全神話は1回の事故でふっ飛びました。4月1日に設立するはずの原発を管理する規制機関の確立もこれから。原因究明もなし、安全対策もなし、規制機関もなしで原発を再稼働させることなど許されないことはどう見ても明らか」(反対の町議)

 と敢えて匿名性を必ず守る、このゆがんだ報道をしているのです。日曜日には共産党としては異例の、志位和夫委員長が直々に福井入りし演説会を開催、多くの市民が参加しました。共産党は国会でも県会でも、いかに今回の再稼動が安全性、科学的知見とはかけ離れた政治判断であるかを明らかにしています。

 ことは共産党云々に限ったことではありません。国民は、こうしたマスコミの情報操作にどれだけだまされているでしょうか。マスコミは共産党が言行一致で脱原発に取り組み、政策提言していることを隠蔽する一方、さも橋下大阪市長が“脱原発派”であるかのような報道を繰り返しています。それが詐術であることは、大手マスコミ報道から離れてみればすぐ分かることなのですが、多くの国民はだまされているようです。マスコミは、橋下市長が核武装を主張していることは隠していますからね。

 国民の情報力が、政治の在り方を今後、ますます変えていきます。何も考えず、大手マスコミの大本営発表垂れ流し報道に浸り、気付いたときには圧制者が頂点に既に立っていて、もう何も言えなくなっては手遅れなのです。大阪の役所や学校の全国化が進んだら、言論の自由、表現の自由はおしまいです。



reversible_cogit at 23:30|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)政治経済 | TV

May 13, 2012

フランス国民が探る新たな道



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 「サルコジ、セ・フィニ!サルコジ、セ・フィニ!」

  オランド次期大統領が到着した五月七日未明、パリのバスティーユ広場を埋め尽くした人の海から沸き起こったのは、この大合唱だった。
  腹からの「サルコジ終了!」の歓喜である。

  夜のバスティーユを占領したのは、圧倒的に若者たち。ピンクの旗(社会党)、赤旗(共産党と左翼連合)、緑の旗(エコロジスト)、青白赤のフランス国旗に加えて、チュニジアなど他国の国旗まで揺れて、微笑を誘った。ブラック・ブラン・ブール(黒・白・アラブ)にアジアも加わって、まるでサッカーワールドカップ状態。アーティストは「自由万歳!」と叫びまくり、人々は真っ赤な薔薇の花を手に革命歌「ラ・マルセイエーズ」を斉唱した。

 それは一九八一年五月以来三一年ぶりの、美しい左翼の祭典だった。
 
週刊金曜日894号・「フランス 新自由主義の権化、サルコジ政治にノンを突きつけ 庶民を守り外国人を許容する「平和」政治を選んだ人々」(山本三春 在仏ジャーナリスト・著作家) より冒頭

 
 フランスで、社会党をはじめとする左翼勢力や保守中道が支持したオランド氏が大統領に選ばれて1週間が過ぎました。事前の調査通りの結果とはいえ、その後のユーロ市場はギリシアの国会議員選の結果もあいまって混乱し、日米の株式市場も冷や水を浴びせられました。

 なぜか。それはオランド氏が「緊縮財政」一辺倒の政策を拒絶し、富裕層への課税を強化し、庶民からの経済成長戦略をとるからです。それが、「緊縮財政」しか道はない、と思い込んでいる政治勢力、金融関係者にとっては受け入れがたいものであり、脅威だからです。

 BBCの報道ぶりを見てもフランス国民の選択に対するその視線は厳しい。しかし、英国国内の地方選においても、同じ緊縮策をとった保守党・自民党は歴史的大敗をしたばかり。つまり、欧州民の世論は一方的な負担押し付けである緊縮財政を拒絶しているのです。

 フランス国民は外国人排斥政策をも退けました。多くの移民を、良き隣人として受け入れる道を選択したのです。日本で石原都知事が外国人差別を公言し、それが支持される実態とは大きな違いがあります。また、日本では橋下のような新自由主義者が人気を博しています。さながら、フランスから4周遅れ、といったところでしょうか。

 もちろんフランス国民の選択は易き道ではありません。しかし、F2の報道や先の引用レポートにあるとおり、若者が政治の決定に大きく関与しているのです。若者が、自分たちがこれから生きる政治を選択している。これも大きく日本と隔たりがあります。韓国においても、若者中心の市民政党が勢力を伸ばし、ソウル市長を革新市政へと転換させました。

 “常識的”には、日本より閉塞しているであろうフランス国民、特に若者世代が、その閉塞感を打ち破ろうと、左派政権を選んでいるのです。日本で左派政権など、つまり、国民視点の政権などあと数十年、下手をしたら国が滅ぶまで誕生しないかもしれません。日本人はフランス国民が選択した道がどういったものか、そしてどうなるのか、注視すべきでしょう。




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May 12, 2012

共感を楽しむ  キム・ジョンファン監督「ちりも積もればロマンス」



 きょうから公開、キム・ジョンファン監督「ちりも積もればロマンス」(LOVE AND CASH)を観ました。先日、ドラマ「成均館スキャンダル」出演のユ・アインが主演した「ワンドゥギ」(間違いなく傑作)に続き新宿武蔵野館、さらに同ドラマ出演のソン・ジュンギと、ハン・イェスルが主演を務めます。


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 26歳のジウンは大学を卒業しても就職先が無く、かといってストイックに生きることも無く母からの仕送りで気ままに生活しているが、家賃滞納がたたって部屋を追い出される。それを見かね、かつ自分の計画に利用できることもあって、すぐ向かいに住むホンシルは彼を自分の家のベランダにテントで住まわせ、2ヵ月の間いうことを聞き、目標金額を貯めるよう約束させる。ホンシル独特の金儲け手法に最初は抵抗を感じていたジウンも、やがて彼女の人となりとあわせ、お金儲けを楽しめるようになり…。
 
 過去のつらい経験からお金しか信じられない女性と、お金は使うもので自分のやりたいことを追求したい男、という組み合わせはそれほど目新しい要素ではないでしょう。しかし、この2人のテンポ良いやりとりに笑い、そしていつしか応援したくなるんですね。ジウンはどうしようもないチャラ男なんですが、不器用で優しいために逆にそれが魅力となり、ホンシルはお金のここととなるとスイッチが入ってしまい、周りが見えなくなりますが恋となると一気に奥手となるコントラスト。こうした2人のやりとりを中心に、脚本・演出も実に手だれているな、と感じ入ります。

 要は、次の展開がほぼ読めていても楽しめる、ということ。これってすごいことだと思うのです。もちろん想像もできない展開こそ観たいけれど、こうして「こうなるんだろうな、ああなるんだろうな」とときに期待し、ときにハラハラし心配する、ということは完全に登場人物に共感できている証拠であり、彼らと共に心が動いている、ということなんですね。どんなに“おもしろく”ても、その展開を完全に傍観者としてしか見られないときはつらいものですから。これこそ王道を行く韓国作品、ということなのでしょう。おもしろかった!






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May 07, 2012

空想が映す現実  アキ・カウリスマキ監督「ル・アーヴルの靴みがき」



 ユーロスペースでアキ・カウリスマキ監督、「ル・アーヴルの靴みがき」を観ました。

 港町ル・アーヴルに流れ着き、若い頃はパリで雑文書きだった靴磨き職人のマルセル(アンドレ・ウィルム)は、気ままに、しかし真面目に仕事をし、バーで飲み、近所のパン屋や食料品店につけで買い物をしている。そんな彼を支えるのは元移民で、良妻の評判高いアルレッティ(カティ・オウティネン)。ある日、マルセルはアフリカからの移民で逃亡中の少年と出遭い、彼を匿い、目的のロンドンへと送ろうとする。時を同じくしてアルレッティは、彼に隠していた内臓疾患の苦しみを抑えることができず、入院することに。検査結果は希望の無いものだったけれど、医師に夫には伝えないようにと懇願します。

 少年を助けるご近所さんもいれば通報する人もいる。通報を受けて捜査に来ても上からの命令どおりに逮捕できない警視もいる。アルレッティを心底心配する人たち…。物語は、一見不安定なのですが、掛け値なしの人と人の「絆」によって良心が生き、安定しているのです。


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 正直、現実感がありません。「これで暮らしていけるのか?」「ここで逃がしちゃうのか?」「入院費は払えるのか?」「なんで治るのか?」と、都合のいい展開に文句をつけていてはきりがありません。しかしこの物語は、その非現実性が強ければ強いほど、現実社会の反証となっているのです。先のフランス大統領選挙第一回投票で移民排斥を掲げる極右・国民戦線が躍進し(日本でいえば石原新党(仮)や、たちあがれ日本のような政党)、サルコジ前大統領は勝つためにはと極右に擦りより政策を打ち出し、結果的に保守中道票を逃し敗れました。

 こうした生々しい現実が今だからこそ、この映画の滋味も、意味も、深く大きくなるのでしょう。これを観て、素直にあたたかい心になれない自分自身が一番苦しいです。




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May 05, 2012

“けれん”の醍醐味!  ツイ・ハーク監督「DETECTIVE DEE AND THE MYSTERY OF THE PHANTOM FLAME」(邦題「王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件」)



 劇終の後、なんともいえない高揚感に包まれました。久々に味わうこの感覚。なんだろう。どう、この作品の魅力を言い表したらいいだろうか、と思い巡らせ、一つの言葉にたどりつきました。けれんみです。この言葉はマイナスな意味で使われるのが本来だと思いますが、僕は敢えて使いたいのです。

 たいがい王朝を舞台とする大掛かりな中国映画は壮大なはったりです。しかし今夜、仕事帰りにシネマート新宿で観たツイ・ハーク監督、「DETECTIVE DEE AND THE MYSTERY OF THE PHANTOM FLAME」(邦題は「王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件」ですが、こんなタイトルのトンデモ映画ではありません)は、そのはったりが見事に成功し、推理劇、愛憎劇、そしてアクション映画として見事に実を結んでいます。


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 時は唐代、王都洛陽には皇帝に即位間近の則天武后(カリーナ・ラウ)を模した、巨大な仏塔<通天仏>が天に聳え、完成に着々と工程が進んでいた。そんなとき、仏塔建立を取り仕切る役人が謎の人体発火で死亡。それを捜査する司法官も同様の死に方をする。これを則天武后は自らの即位に反対する勢力の仕業と断じる。時を同じくして国師のおつげ(神鹿がしゃべる!)により、かつて箴言をし、幽閉の身となっていた判事ディー(アンディ・ラウ)を呼び寄せ、さらに寵臣のチンアル(リー・ビンビン)、アルビノの容姿をもった司法官ペイ・ドンライ(ダン・チャオ)を補佐役とし、捜査が始まる。息をもつかせぬ展開で、幾重にも重なった謎が解き明かされ、大スペクタクルなエンディングへと突き進む。

 謎の数々が、超常現象と現実的な謎解きの渾然一体によって構成されているのがさすが紀元前の物語です。ですから単なる推理ものより物語として数段面白い。そしてなんといっても、捜査する3人組が、当然最初は猜疑心はあるものの、やがてよくあるえげつない裏切りとは無縁の関係となり、事件の解明(その動機は様々にしても)に向けて身を賭す姿は、殺陣の美しさ・強さとあいまって、とにかくかっこいい。特に美しきチンアルの複雑な愛憎に苦しむ姿や、当時アルビノの容姿がどれだけの意味をもったか分かりませんが、ペイの水際立つ存在感は一種妖艶です。この若き2人に支えられ、アンディ・ラウ、カリーナ・ラウの名演があると強く思います。

 正直いうと、あんまり期待していませんでした。邦題のせいでトンデモ映画かもとも思っていました。ただ、予告編や、あのツイ・ハーク作品であり、なんともいえぬ引力があって観にいき、結果は大正解。合わせて、先日観た「捜査官X」のもやもや感の意味もわかった気がして(それはまたの機会に)、いろんな意味で充実した、観ごたえある作品に違いありませんでした。支配者に殉じることが、こんなにもかっこよく描かれるのにちょっと政治的臭いも感じなくはありませんが(則天武后の再評価路線も同じ)、そんなことは置いておきましょう!




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May 04, 2012

雨あがる



  大雨がやんで、無風で、大気が澄んで、青空とまだ灰色の空が同居しているとき、透徹した夕陽がさしてきました。するとどうでしょう。また、パラパラと大粒の雨がふってきて、キラキラ奇跡みたいに輝きました。あぁ、大雨がやんで今度は狐の嫁入りがどこかで始まったんだなって。きれいでした。

  こうした色が重なり合う空を見ると、新海誠の作品を連想するのは最早刷り込みです(笑)


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  きょうは夕方でかけるまで、ずっと家にいました。いろいろあって。で、渋谷TSUTAYAでもはじまった「ずっと旧作100円」で借りて来た、パク・チャヌク監督『親切なクムジャさん』(2005)を再見です。映画館で観て、ちゃんと再見するのは7年ぶり。

 いや、ほんとよかった。脚本も、映像も、音楽(ヴィヴァルディ多用)も、演出も、素晴らしい…。ちなみに主演のイ・ヨンエさんって、「宮廷女官チャングムの誓い」の主演でもいらっしゃるんですね。清楚な彼女が、母としての怒りを裡に秘め、赤いアイラインをひいて復讐劇に着々と歩みを進め、実行する姿は美しかった。悲しかった。いとおしかった。夜ご飯は、録画したBSJAPAN「韓流ファクトリー」(おもしろい)を見ながら、自分で作った韓国料理を食べて、百年酒とスジョンガを飲んでおいしかったです。もちろん器と箸とスプーンは銀色。

 さて、あす、あさってと出勤です。でも、通勤時間帯はすいているでしょうからいいことにしましょう!日曜日は13時出勤のシフトなので、あす夜はシネマート新宿に寄って映画観て帰ろうかな〜。


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May 03, 2012

憲法の恩恵は天与のものに非ず  第12回「5・3憲法集会」



 個人的には最大2連休だった大型連休もきょう、あすでお仕舞い。放送に休みはありませんから。そしてきょうは、65回目の憲法記念日。ということで初開催の12年前からほぼ毎年欠かさず通っている、日比谷公会堂が会場の「5・3憲法集会」に参加してきました(主催=8民主団体で構成される2012年5・3憲法集会実行委員会)。大雨なんかなんのその。会場は満席です。僕のような個人参加者はもちろん、医療、教育、航空港湾、建設、農業、マスコミなどの従事者が多く参加しています。

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 スピーチは、原発爆発人災で福島から東京に避難してきた松本徳子さん(つながろう!放射能から避難したママネット@東京)、元宜野湾市長の伊波洋一さん、脚本家の小山内美江子さん、社民党党首の福島みずほさん、日本共産党委員長の志位和夫さんらが行い、会の半ばでは中川美保さんのサキソフォン演奏が花を添えました。

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 語られたテーマは原発、米軍基地=日米安保、TPP、橋下・維新の会、そして改憲への策動などです。松本徳子さんの原発被災者としての言葉は重く、伊波さんが訴える普天間基地の人権侵害ぶりには改めて驚かされ、小山内さんは「9条改悪=徴兵制復活の危険性」を語り、福島党首が指摘する「被災地でこそ憲法いかす」という理念、さらには志位委員長による原発、日米安保、そして橋下・維新会がいかに憲法と相容れない存在かという明瞭な論陣が展開されました。

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 そして毎年思うことですが、もし日本国憲法がなければ、どれだけ我々の民主主義が制限され、息苦しい生活を送っていたか、ということ。さらには、自民党やみんなの党、ほか保守小党が「改憲私案」を示していますが、どれも「憲法=権力の暴走から国民・市民を守る最高法規」という概念がさかさまで、“憲法”を国民が守る義務集にしようとしている愚かさです。我々は、知らず知らずのうちに憲法の恩恵に浴しています。そしてそれは、天与のものでないことを肝に銘じなければなりません。



May 01, 2012

喜怒哀楽とともに…  ほしわにこ著 『ひねもす老猫生活』



 ほしわにこ 著(文、イラストとも)、『ひねもす老猫生活』(学研マーケティング)を拝読しました。イラスト満載、文章も読み応えアリ。猫との生活についての本といえば加門七海先生の、こちらは拾い育てた病弱な子猫との実録エセー『猫怪々』(集英社)を少し前に読んでいて、加門先生と、その先生と縁をもつ猫はやはりタダモノでなし、という感慨を深くしたばかり。また、身体の弱い子猫と正面から向きあって暮らせば、もう猫中心の生活にならざるをえないのだと垣間見たのでした。

ひねもす老猫生活
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 一方、『ひねもす〜』はイラスト満載で、読む者にって“怪しい楽しさ”はないけれど、ごくふつうに猫と暮らすのも、それはそれは簡単ではないことを教えてくれます。もちろん、そこには猫と一緒に暮らす楽しさ、充実感がいっぱい。加門先生と同様、家族の一員としての猫との生活がいきいきと描写(推察された猫の心象台詞も交え)され、章のおわりにはコラムが設けられて著者の意見がうまくまとめられています。

 登場する老猫いわし(19歳。人間だと90歳代後半)と、14歳で亡くなったさわら。この2人(匹)の生活ぶり、性格の違い、家族との距離感など、電車の中で読み始め、最初はニヤニヤ楽しく読んでいたのですがページを繰るごとに著者の愛情と真剣さに圧倒されます。さわらの章は大切な家族の闘病日記であり、お別れの記となり、またふたたび3例の“長生き猫”レポートがはさまれて、最後に老猫と暮らす留意点が獣医のアドバイスつきで紹介される構成は、見た目がっちりとした目次からの印象そのままです。

 こうして猫との生活記を読むにつけ、自分が子どものころ、いかに何にも分からないで猫を“飼って”いたかを反省し、また、さわらが亡くなるシーンでは、20年近く前に自分も味わった病で倒れた犬との別れを思い出し、受験生だった自分がその子の命に向き合っていなかったことをかみ締めます。本書は、著者とおなじような境遇の読者であれば共感の笑いと涙で読めるでしょうし、僕のような人間も、いつかまたへの反省と心構えとなる良書です。


猫怪々
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