December 2007

December 31, 2007

「偽」を冠する年の瀬に



 今年も恒例の一年を象徴する一語が清水寺で書かれました。その肝心な一語が「偽」となったのは重いことだと、国民全体が感じているはずです。食品偽装に始まり、防衛省など官僚や政治家(まだ額賀は財務大臣やってるよ)の利権体質、加えて横領着服が平常化し、まったく民間では考えられない杜撰なデータ管理がされてきた社会保険庁の年金問題。そして姉歯耐震偽装に端を発した改正建築基準による住宅着工件数大幅減が後から利いてきています。
 
 一方、米国発、信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)問題の荒唐無稽な融資実態(買うほうも買うほうで、9万円の月収で5000万の家を買ってしまう「自分」を信用できるのか?)も偽装中の偽装。さらにそれを切り刻んで組み込んだ合成債務担保証券(CDO)にして売って買った大手金融機関(ゴールドマンサックスを除く)の兆円単位の大損失。中国の未曾有の上昇をみせる株価も明らかにバブルであり、当地の証券会社のアナリストも心配する(日経CNBC「ザ・経済闘論」から)急増する住宅ローンがバブル崩壊によって一瞬にして“第2のサブプライムローン問題”になりかねない状況もあるのです。

 しかし、多くの日本国民はこうした経済危機に気付いていません。株を買っていようがいまいが、FXや先物と無縁だとしても、経済は世界全体、日本全体の問題であり、それが原油高からガソリンの値上げ、穀物高が日常食品の値上げのつながっているのです。それを大きく左右するのが政治の金融政策であり日銀公定歩合の決定、行政の代表として実行力ある改革をいかに進められる指導者がいるかどうかなのです。僕も最近ようやく気付いてきたのですが、中曽根大勲位の国粋主義的側面は受け入れられませんが、一方で彼が行った国鉄や電電公社の民営化が、当時は痛みを伴ったかもしれませんが国家百年の計に測った場合正解だったことは明らかです。いまのところ郵政民営化がそれと同等の成果を得られるかは分かりませんが、いったんGOを出されたのだから一番利益体質改善が図られる政策をとってもらわねばなりません。よく「改革」の例としてひきあいに出されるのがマーガレット・サッチャー元英首相の国営企業民営化と整理縮小。労組の強い英国で大きな渦を巻き起こしたものの結果として「英国病」を見事に克服した事例は説得力があります。

 ドイツは「社会市場主義」を標榜しています。米国や今の日本の一方的な弱肉強食政策はとらない一方で、健全な資本主義と金融政策をとる(必要なときには政府が市場に介入する)ことで財政健全化が着実に進んでいるのです。もちろんそれなりに汚職や利権はあるのでしょう。しかし、やはりそこにはキリスト教民主同盟と社会民主党が強いように、理念や信仰、思想がアメリカのように偏ったり、日本のように皆無だったりしないバランスがとれた姿があるのではないでしょうか。「偽」が発覚することはショックですが、そこから改善しないのはもっと最悪。以前も引用しましたが、くしくも福井日銀総裁がサブプライムローン問題を「リプライスの過程にある」と分析しました。英国的劇薬は望めないかもしれませんが、まさに日本も世界も今の価値観をもう一度考え直し、欠点を克服する良い機会にあると捉えるべきではないでしょうか。2008年を、重ねるに価値ある一年にするために。


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December 27, 2007

消化不良の心地よさ・・・野田地図第13回公演、作・演出/野田秀樹、『キル』



 およそこの文を書き始める30分前、Bunkamuraで拍手していました。井の頭線で神泉からここまではなんとも近すぎて、興奮冷めやらぬ、というよりはまだ落ち着きません。野田地図第13回公演、作・演出/野田秀樹、『キル』を観てきました。3度目の上演で、僕は1回目がNHKで放送されたのを録画して何度も観ましたが結構それももう何年も前。でも、難しい。出演は妻夫木聡、広末涼子、勝村政信、高田聖子、山田まりや、村岡美希、市川しんぺー、中山祐一朗、小林勝也、高橋惠子、野田秀樹。

 舞台はモンゴル。「蒼き狼」というブランドの服を羊で作る一家に生まれたテムジン(妻夫木)。母(高橋)と実の父親(小林)の子どもではないために父には疎まれるものの、敵のデザイナーに殺された父の跡を継いで世界に「蒼き狼」の制服を着せて征服するのだと大志を抱く。彼を支えるのは唯一字が読める弟子の結髪(勝村)とマヌカン=人形(高田)で、結髪は連行された敵陣から一人のモデル、シルク(広末)を連れ帰って文盲の二人の間に入り手紙を書き彼らを結ぶ。やがて正体不明の「蒼い狼」というブランドが隆盛し、万里の長城の向こう側の世界がテムジンを侵食する。彼の大志は野望となり、世界征服=制服化はいかに。

 最初、父親が作った羊だけと生きる地図を世界だと思い込んでいたテムジンのように、観客は野田の広大な世界観に共鳴できるかが重要なのかもしれない。自分の種ではない子どもと父の関係が繰り返される皮肉(と同時に連綿たる生と死の尊さ)=人類の歴史の営々たる繰り返しと、モンゴルの青い草原や大空という雄大な自然との対比。最初に胸に抱いていた青雲は地上の人間同士の争いでいつしか掻き曇り、その果てにようやく己が頭上を見上げ、「青い空」はいつもそこにあったと気付く。

 でもなんだが僕には響かない。先日、WOWOWで観た『赤鬼』や『ライトアイ』、劇場で観たほかの野田作品のようにはなぜか胸に落ちない。僕のセカイが狭いということなのだろうか。もちろん語られる言葉は美しいし、妻夫木も彼なりに懸命に演じたと思う。なんでだろう。なんでだろう。年の瀬に、もはや死語になった数年前の流行り文句を頭の中で繰り返し、今年の観劇を締めくくることにする。


reversible_cogit at 22:01|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)演劇 

December 24, 2007

火炎が炙り出すのは



 12月21日、茨城・神栖市の三菱化学鹿島事業所第2エチレンプラントで大規模な火災事故が発生した。きょう現在で操業停止が3〜4カ月が見込まれる三菱化学、ならびに同鹿島地区で操業するJSR、信越化学、クラレなど化学プラント各社に原材料調達などの影響が及んでいる。

 さらにこの事故が重大なのは、4人の従業員の命を犠牲にした事実だ。そして注目すべきは亡くなった方々全員が下請け会社に各々所属だということ。別にここで三菱化学の社員が死ねばよかったなどと妄言をいうつまりは全くない。ただそれでも、実働し、危険な立場で働くのは下請けというまさに弱い立場の人たちであるという現況。役割分担という名の下に、命の価値も自ずと決まっているかのようだ。

 かくいう私もテレビ局内で働く「パートナー=下請け」。同僚と、もし火事になったらやはり正社員から避難誘導され、「パートナーの方は口にハンカチを当てて正社員が避難し終えるまでお待ちください」と炎燃え盛る中で強要されるのではないかと、半ば冗談、半ば本気で話し合った。仕事の出来や学歴の高低はしばしば局員と下請けで逆転するとしても、そんなことは関係ないのが世の常である。

 画面に映し出されたあの、黒煙まざる火炎が人命の格差を炙り出し、より立場の弱い人間の命を焼く。正社員の首をきればきるほど税金が優遇される自公政権の政策によっても、国民の命や人生は切り刻まれた。そんなことが将来的にプラスになるはずもなく、実際今そうした方針を転換し始めた企業も多い。グッドウィルが二重派遣で業務停止命令を受けた。もちろん個々人の努力や能力の違いはある。しかし同じ仕事をして待遇が違うという理不尽は排し、長期展望ある社会構成を政治に迫っていきたい。


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December 22, 2007

埋蔵金発掘→増税を



 今、自民党内で財政運営方針をめぐって「財政再建派」と「上げ潮派」が対立しているという。前者は与謝野馨前官房長官や谷垣禎一元財務大臣、園田博之党政調会長代理らが代表格、後者は中川秀直元党幹事長、塩崎恭久元官房長官、大田弘子経済財政政策担当大臣だ。

 「財政再建派」の主張は消費税アップなどを柱として経済成長とは別に増税によって国債の償還に当てていく方針を採る。一方、「上げ潮派」は金融緩和や部分的減税によって経済成長を促し、そこから税収増を図るというもの。さらに中川氏は国の政策予算とは別会計で200兆円を超す特別会計、さらには今もっとも問題となっている独立行政法人の資産(これを“埋蔵金”と呼んでいる)などを整理縮小、売却して消費税増税回避をと唱えている。これに対し園田氏は「そんなものはない」と“埋蔵金”を否定、消費税アップ路線を軌道に乗せたいようだ。

 もちろん財政再建が必要なのは百も承知。毎日毎日、国債の利子だけで数十億円がつみあがると聞く。ドイツが新規国債発行をなくしても財政運営が出来そうだという報にふれ、彼の岸此の岸の大きな違いに溜息が出るばかりだ。しかしさすがに自民党内のお話だから軍事費や米軍への思いやり予算を削れという話にはならないけれど、それでも特別会計や独法が無駄遣い、既得権益・役人の天下りの温床になっていることは指摘されて久しいのに、ようやく独法の数がわずかに減らされるであろうことが現状としてあるに過ぎない。つまり、財政再建派はここにきて「官僚や族議員の砦」となりつつあるのだ。

 どう考えても、今の政府がサブプライムローン問題にまともに対処しているようには見えない。各種経済指標も景気後退のシグナルを出しているのに消費税増税、高値が続くガソリンの暫定課税恒久化、各種国民負担増などの政策を平気で打ち出している。サブプライム禍のアメリカやドイツよりも大幅下落減少したままの日経平均株価、東証株式時価総額(ここ3週間で63兆円が失われた)を見よ。“国の富”の目減りは言うまでもなく、年金や社会保障費の多くは株で運用しているのだから国民生活に直結した危機だというのに。薬害肝炎訴訟に対する福田総理、舛添厚生労働大臣、鳩山法務大臣(補償は血税だから無理といった。政策被害者の人命を救うのに血税を惜しみ、兵器を買うのに出血大サービス!?)の態度を見る限り、国民の意を汲んでいるとは到底思えない。

 上げ潮派の看板、小泉改革(というより竹中改革)は負の部分が目立ったけれどここにきて正の部分を評価すべき時期が来たのかもしれない。亜流、自民党内野党だから出来た改革もあるのだと。まずは無駄をカット、しかして増税。どうしてこうしたバランスの取れた政策が自民党の主流にならないのか。自民党の、真の「国民政党」への脱皮が望まれる。でなければ…


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December 21, 2007

若き大器が奏でる  外山啓介「2007◆クリスマス・ピアノリサイタル」



 外山啓介さん、2008/11/01、調布グリーンホールでの演奏についてはこちら

 きのう、以前AERAで“リアルのだめ”というか“リアル千秋真一”なアーティストとして紹介されていた外山啓介の「クリスマス・ピアノリサイタル」に足を運んだ。会場は池袋の東京芸術劇場大ホール。満員御礼、大ホールの前から3列目で演奏中の表情が確認できる位置。やはり女性多しだが、お母さんに連れられた子どもや高校生も。

 正直、僕はバロック人間なので(バロック音楽愛好者の意)ピアノ・ソロコンサートに来たのは2度目。それも1回目は大昔で、フォルテピアノ(モーツァルトやベートーベンの時代のピアノもしくはそのレプリカ)のコンサート@浜離宮朝日ホールだったので、モダンピアノを大ホールでそのまま聴くのは初めての経験だった。

 衝撃だった。最初、バッハの編曲版『主よ、人の望みの喜びよ』を聴いて余りに耳になれた曲と違うので違和感に満たされたのもつかの間、これはこれ、どうせピアノに編曲しているのだから自由に弾けばいいんだ、と思えた瞬間からどっぷり。次のシューマンの『献呈』、リストの『スペイン狂詩曲』に至ってその輝かしいピアノの旋律、1984年生まれの才能と努力の結晶のシャワーを浴びて、シューマンの『ライン交響曲』に通じる清く力強い華やかさと、リストのテクニークのために書かれた花びらの嵐に巻き込まれたような陶酔。つづくショパンの前奏曲はポーランドの田舎の穏やかな庭を眺めつつ、ふと物思いに耽りながら苦い思い出を未来への希望へつなぐ抒情詩を聴き/読んでいるかのような錯覚を覚えた。

 休憩を挟んでデザートのようなチャイコフスキーの小品を3曲(彼の本領は交響曲ということだろう)と、ラフマニノフの都会的で美しい『ヴォカリーズ』、荒々しさと冷静な感傷が交錯するピアノソナタを楽しんだ。目の前に座ったミーハー系な女性人が飴なめたり(包み紙を開ける音が!)うつらうつらしたりして耳障り目障りだったけれど、ほとんど初めてピアノ(スタンウェイ)の壮麗な響き、古典派より先のピアノの名作たちに出会えた感動に勝るものはなかった。初めて聴いた外山氏のピアノ。早速CDも注文(全曲ショパンなので控えていた)。すでに大器。将来はどう更に磨かれていくのか楽しみだ。




reversible_cogit at 08:34|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)コンサート 

December 20, 2007

青いりぼんに滲む、涙と血と  渡辺えり主宰、オフィス3○○復活公演『りぼん』

 

 火曜日(劇団、本谷有希子公演『偏路』)に続いてきのう、吉祥寺シアターで渡辺えり子改め渡辺えり主宰、オフィス3○○復活公演『りぼん』を鑑賞した。今月は来月からの転職を控え“平日の観劇締め”の感。同主宰公演で池袋に続いて2度目の最前列。前回は舞台を見上げたがきのうは目線の高さで満喫。素晴らしかった。本谷が個人的セカイの物語なら、渡辺の世界は個人と社会と歴史の物語。「劇場にはすべてがある」。そんな劇中の台詞が、彼女の願いに似た志を象徴する。
 出演は木野花、宇梶剛士、田根楽子、北村岳子、観世葉子、信田美帆、石井里弥、近藤達郎(ピアノ)、川波幸恵(バンドネオン)◆渡辺えり、土屋良太、新井和之、奥山隆、吉田裕貴、多賀健祐、谷口幸穂、川崎侑芽子、東澤有香、加藤亜衣、海野渚、堀内美希(兼ファゴット)、岡田優(兼ギター)ほか。

りぼん 

 舞台は昭和39年、横浜の劇場廃墟から始まる。世間は東京オリンピックに沸き、高度成長と「戦後」を謳歌している。教師の「過去を知り、想像する」という方針で山形第六中学の生徒たちが修学旅行に訪れ歌やダンスを踊って楽しんでいる中、突如、生徒すみれの弟・時夫、同じく生徒の直助が飼っていて亡くなった猫・ヘプバーンが現れ、彼らを根岸の外人墓地に導く。霧満ちる中、胸から青いりぼんを生やした青年が地中からよみがえり、皆、時空の狭間に落ちていく。

 筋は幻想的かつ複雑だ。死者と生者が交わり、さながらばらばらな絹糸が編まれ、終盤になってその糸が同じくして一本のりぼんになっていることが明らかになるようだ。その一本、一本の糸は人生であり、悲しみと喜び。未だみぬ母への思慕、娘を失った母の悲しみ、弟との思い出、戦争で引き裂かれる愛を誓った者たちの叫び…。恥ずかしながら、今まで何度も何度も映画などで見てきたというのに、きのう初めて、戦争によって愛し合う者が引き裂かれることの悲しみをこの身に迫って感じた。「二度と会えないってどういうこと。想像できない」。夜の青山街中、行方不明の母を待ち続ける“老女”が満月をみて、そこに向かう列車の車窓に母の姿を視て手を振る。人が抱える深い悲しみを、こんなに美しく痛切に表現した舞台は稀ではないか。

 木野花をはじめベテラン・客演女優陣が主軸となり、とりわけ元劇団四季の北村の歌唱は白眉。一方、信田が青いリボンにするすると登って技を静かに披露する姿は圧巻、ピアノとバンドネオンの生演奏も甘く苦い雰囲気を見事に醸す。若手では新井が少年から美青年まで5役を演じ分け活躍し奥山、多賀、谷口らがそれをしっかり支え、加藤演じる少年の亡霊は、思い出のその儚さと印象を同時に強調する。ここまでの大人数がいてしっかり一人ひとりが機能する舞台を久しぶりに観た。青いりぼんが世代を人を、その思いをつなぐ。演劇という2000年の歴史を超える芸術の可能性がここにある。来週の『キル』も楽しみだ。




reversible_cogit at 14:47|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)演劇 

December 17, 2007

国家の饗宴、今も昔も  ローランド・ジョフィ監督『宮廷料理人ヴァテール』


 
 wowowで放送されていたので映画『宮廷料理人ヴァテール』を鑑賞。上映された2000年当時、僕はまだ仏文学専攻、それも17,16世紀演劇、オペラを専門としようとしていた院生だったので、この作品は当時の宮廷文化を歴史考証をもって映像化したものとして重要・貴重だった(ただ劇中で演奏される音楽には難あり)。

宮廷料理人ヴァテール
 

 そして改めて見返してみると、やはりコンデ公がフロンドの乱による失寵を挽回すべくルイ14世をChantilly城に招待、3日間に亘る饗宴の様子が見事に再現されていた。もちろんその饗宴を取り仕切ったヴァテール(ジェラール・ドパルデュー)、ヴァテールに思いを寄せつつもルイ14世に気に入られたアンヌ・ドゥ・モントージエ(ユマ・サーマン)、モントージエに拒否されヴァテールに敵意を持つローザン侯爵(ティム・ロス)らの人間模様もスリリングでおもしろい。

 ただ、最も印象深いのは饗宴の見事さ以上にその過剰さ。バロックとはそもそも歪んだ真珠を意味し、過剰の美とも言われるけれど、バロック芸術を育んだ宮廷文化は過剰の文化ともいえるかもしれない。食べきれいない料理、見きれない装飾、そしてどろどろした性欲と流血沙汰。それが実際に見えていても、見えないていないように振舞う。この饗宴途中に債権者たちが城に詰め掛けるが、この過剰さが借財によって支えられているのもむべなるかな。

 庭に大規模に設えられた表舞台では花火とオペラは華やかに展開する裏では、歌手を持ち上げる馬のロープに厩係が絡まり首を締め上げられ死ぬ。ヴァテールが貧困のために両親を失い、貴族は嫌いだが批判はしないという世界。裏と表、大きな身分差。思えば、800兆円の借金によって国家を運営している現代日本が、どんどん格差社会になっている姿、国が国民の命に線引きをする実態をみるにつけ、何をか変わらんやと。ヴァテールの“最期”も、今も昔もだろう。
 


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December 15, 2007

番組の見極め


 
 きのう、石原都知事が「フランス語は数を数えられない」といった発言に対する、“仏語侮辱裁判”で東京地裁は原告の訴えを却下したというニュースがあった。理由は特定の個人の名誉を傷つけたものではないから。一方で、石原都知事の発言内容は当然ながら事実誤認であり、フランス語に携わるものに不快感を与えたと。

 しかしこの発言が、どういった意図で成されたかを考慮しなければならない。同発言は、石原都知事が都立大を首都大学東京という、破綻寸前の銀行の名前と見まがう大学名に変え、組織を解体、教養課程を縮減させる過程でそれに最も抵抗したフランス語教員を侮辱するためだったことを。「企業」が「個人」という概念で扱われるのなら、全国のフランス語教員、同語を学ぶ人間、そしてフランス語を話す人類を侮辱したものに他ならない。虚偽をもって数千万単位の人間を、一国の首都の政治家(屋)が貶めておいて問題にせず、とは、人権擁護の砦であるはずである(そう信じたいが誤認か)裁判所が無反応とは嘆かわしい。

 つまり、この裁判の核心とは、権力ある著名な政治家がある文化体系を侮辱した、という点にあるはず。しかし、きのうのテレビ朝日の夕方ニュース「スーパーJチャンネル」では、「じゃ実際、どうフランス語は数を数えるでしょうか」と、どうでもいい数式をフランス語でやってみせて「ね、複雑でしょ」という番組構成に終始していた。フランス語における計算が複雑かどうかなど、はっきりいってそれを母国語にしていない人間がどうこういえる訳もないのに(フランス語でなされる数学論は劣っているのか)、まったくバカげたことだ。テレ朝の石原プロとの資本関係に起因する偏向と、実際に薄っぺらな視点が重なった最悪の番組といえるだろう。

 先日も、静岡市でオールニッポンヘリコプター(ANH)が運航するヘリコプターが墜落した事故の第一報でも、盛んに「NHKのヘリ」と伝えていた。もちろん他局ではANH運航という点が当然ながら重大なのに(なんでそれを利用していたNHKが問題とされるのか)、ANHが、テレ朝の親会社である朝日新聞が大株主の全日本空輸(ANA)の子会社であるからとしか考えられない。ちなみにテレ朝はANN、オールニッポンニュースネットワークの元締めであり、ANNとANAとANHは表記において酷似している。また、なぜ先ほどわざわざ「第一報」と書いたかといえば、他局がこの事故原因究明過程を伝えていたのに対し、テレ朝では以後、この事故を一切報道しなかったからだ。

 CXが政治的意図で民主主義を脅かす事件や裁判を報道しないように、テレ朝も資本関係で不利なニュースは流さないし、かつて編成局長が政治的に民主党を称揚し、自民党や勢力を拡大していた共産党を黙殺した報道をするよう指示していたと吐露したのは有名だ。こうした裏事情は、言われつくされた感はあるにせよ、やはり視聴者にはその必ずある裏の意図を読む力が試されることを考えなければならない。比較が大事ということ。


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December 11, 2007

自由の意味を知る人間  ベルトラン・ドラノエ著『リベルテに生きる』(八木雅子訳、ポット出版)



 きょう(2007年12月11日)、石原慎太郎都知事が今までさんざん強硬な姿勢と言動をとり、受け入れないといっていた「ふるさと納税」に協力することを表明した。これまでと一転、自分は弱い立場だ、官僚は強いんだ、とことさら強調して自己弁護を繰り返していた。この一夜にしての転向の裏には、相当彼自身にとって旨味のある話があるのだろうが、ここに彼の本質が顕現しているように思える(破綻寸前の「新銀行東京」にカネをまわすとでも言われたか)。表面上は威勢のいいことをいい人気を集め、裏では政府と馴れ合う。また彼に都知事としての“次”はなく、もはや人気は彼にとってさして問題ではない。というか元々、都民一人ひとりの生活など彼にはそんなの関係なぇ、なのだから。

リベルテに生きる パリ市長ドラノエ自叙伝


 こうしたデマゴーグをその頂点に戴く東京という都市の、未成熟と不幸を、ベルトラン・ドラノエ著『リベルテに生きる』(八木雅子訳、ポット出版)を読んでつくづく思わざるをえない。ドラノエ氏はフランスの首都・パリの市長であり、信念固い社会民主主義者であり、同性愛者であることを公表した「支持率70%」の政治家である。彼が書いたこの自伝を読むにつけ、政治家というものが本来、とりわけ矜持ある“左翼”の政治家がどうのような見識をもち、市民の声を吸い上げ、あるいは発掘し、虚飾でない地に足の着いた政策をいかにアクティブに実践していくべきかを如実に垣間見ることが出来る。

 それは彼が幼少時にイスラム圏の北アフリカで育ったこと、互いに信頼しあう、敬虔なクリスチャンの母と、無信仰の父の下で育ったという生い立ちにも起因するだろう。また彼が同性愛者であり、それが彼に幅広い視野(ことに他者の痛みへの共感、少数者であることの意味)を与えたことは間違いのないことだ。しかし彼がそうした土壌の上に、自ら積極的に社会民主主義という確固とした理念を獲得し、仲間との権力のやりとり、深い親交を通して培っていったからにほかならない。まさに表題にある「リベルテ=自由」というものの意義や尊さ、その不可侵性を実践をもって証明しているのが彼の市政ということになる。

 また彼のそうした政治姿勢は“パリ”にとどまらず、ヨーロッパ、世界へと広がり、人権、経済、環境と多岐にわたっている。とりわけ印象深いのは、彼自らを凶刃で襲い大けがをさせた犯罪者の身、その更生さえも気にかけての刑務所での待遇改善=更生施設としての刑務所の在り方を説く下りには心底感嘆した。そうした堅固な人権意識があるからこそ、経済とバランスの取れた福祉政策実現というものが叶えられるに違いないのだ。アクティブに市民の叱咤激励を受け入れ、行動する。こうした政治家が今、どれだけ日本にいるのか。理念先行、利益誘導先行の政治屋にはもううんざりだ。こうした政治家を生み、育てられるフランス、パリという民主主義の生きる地に、改めて敬意を表したくなる読後である。

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December 10, 2007

田中聖も吉牛で食べる


 毎週土曜夜勤の日曜朝午前6時すぎ、芋洗坂にある吉野家、
 六本木6丁目店に朝ごはんを買い出しに行きます。

 けさは珍しく少しこんでいました。
 牛丼が期間限定で24時間化しているからでしょうか。
 すると僕と同僚が持ち帰りを待つ向かいのカウンターに、
 KAT-TUNの田中聖さんが、
 男女一人ずつのお友達と席に着きました。
 目は真っ赤、もうさんざん踊ってきた後って感じで、
 豚の生姜焼き定食を注文していました。

 同僚はまったく分からず、店員は中国人と韓国人、
 お店のお客さんも白人と黒人とわずかな日本人で気付く人は?
 あとでいかにも六本木で遊んでます風な男のこたちが、
 それでも「たなかこうきさんですよね!」と丁寧に挨拶し、
 握手を求めていました。
 もうヘロヘロな田中さん、さすが子役時代から活躍し、
 モントリオール国際映画祭で評価を受けるような
 (今の外見とはかけ 離れてますが)
 芸歴をもつくらいあって、しっかり応えていました。

 に、しても。
 今をときめくKAT-TUNという押しも押されぬトップアイドルが、
 まさか場末の吉野家に来るとは何気に驚きですよね。
 レッスンに通った帰りに竹下通りの吉野家に寄るJr.じゃあるまいし。
 不思議ですね。
 でも、それが逆にそれがいいのかな。


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