August 2007

August 30, 2007

うつくしきものがたり 『大阪ハムレット』1巻、2巻■双葉社



 あんまり未配達が多いのでやめてしまった朝日新聞。
 通算6回目の夕刊未配達の翌朝、やめようか続けようか悩む
 その足でとりにいった朝刊がなんと、日刊スポーツ。
 怒り心頭のまま電話して購読中止を宣言。
 いま、日経金融新聞としんぶん赤旗という両極端な新聞を
 読んでいるのですが、ようよう苦しくなってきた。
 それぞれ勉強にはなって頭にはよくても、心に届かない。
 朝日新聞、読みたいです。

 そんな朝日夕刊に「週刊コミックジャック」という欄があって、
 以前、森下裕美さんの作品が紹介されていました。
 同欄は名越康文氏(精神科医)、藤本由香里氏(評論家)が
 週代わりでマンガひと作品紹介していくものです。
 森下作品は、ほとんどマンガというものを読まなかった時期、
 それでも『少年アシベ』をはじめ、その毒と優しさが一緒くた
 になった作風が好きで読んでました(大学1年のころ…)。
 そして久々に森下さんの名前を同欄で発見、気になっていて
 やっときのう、パルコで旅行ガイドブックと共に探したのです。

 『大阪ハムレット』1巻、2巻■双葉社
 大阪ハムレット (1)


 物語はオムニバス。こてこての大阪弁、河内弁で書かれていて、
 その絵も独特きわまりなしです。
 端的にいえば、語弊があれど“市井の人情話”でしょうか。
 それも典型的な古い頭のではなくて、いまの、現代のそれ。
 マイノリティーも、複雑な家庭環境も、プラスに描く。
 人がいかに見た目と異なり、逆に内面と外見が一致しないとき、
 いかに見た目が大切か。久々に、生きる希望が光るマンガを
 読むことができました。
 で、あんまりすごいんでカバーがかかった表紙を初めてまじまじ
 みたら、なんだメディア芸術祭賞も手塚治虫文化賞もとってる。
 僕が叫ばんでも世の中はちゃんとしとるがな、と拍子抜け(笑)

 たまたま『リトル・ミス・サンシャイン』を観たのですが、
 基本的に似ているなぁと思いました。
 やっぱりこうした陽な「物語」を読まないと心が死ぬな。
 このあいだ英語で歌われる「メサイア」のフランス語の対訳を
 読みながら聴いていたら、あんまり美しい歌詞で涙が(電車で…)。
 クリスチャンでなくても、美しい賛歌は美しく感じるんですね。
 音楽も、絵画も同じように。
 そして『大阪ハムレット』も同様、根源的に美しい物語です。



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August 27, 2007

ひばり、啼く



 きのう、泊まり明けで実家に一泊。
 BSで蜷川幸雄×松たか子、アヌイ原作『ひばり』(1953)
 が放送されていました。
 以前、NHK教育の放送で後半を観ていたので前半を観ました。
 なにしろ泊まり明けなので途中でリタイアし寝ましたが。
 松たか子、どこがいいのか余り分からないのですが、
 いい演技していました。磯部勉さんの異端審問官が抜群。


 1953年、フランスの作品。
 物語はジャンヌ・ダルクの生涯ですが、主題は女性の生。
 彼女が大天使ミカエルの声、神の信託を聴いたと聞けば、
 父も母も娘の貞操を疑い、家内作業、羊の番といった
 「女は家にいるもの」という価値観を押し付ける。
 100年戦争当時では当然でも、今、そうした両親の姿は
 まさに何世紀も継続してきた旧弊社会の代表者であり、
 同時にいまだ21世紀も生きる価値観なのだと再認識する。

 ジャンヌは弁も立ち、行動力もある。
 頭の悪いおやじをおだて上げ、力なき王を権力の座につかせる。
 そして信念(信仰)、自分自身の知覚や体験に殉じる。
 “聖なる力”(真偽は別)の周囲には政治や思惑が渦巻き、
 結局はその力を貶めるのはいつの時代も同じだろう。
 彼女への評価が時代によっていかようにも変わるだろうと、
 劇中で述べられていることに集約されるだろう。
 彼女の権威を着たい者、悪の権化と仕立てたい者の思惑で。

 その表現が直喩的なものなのか、幻想的、婉曲的かは様々でも
 演劇自体、その主宰の思惑に左右される存在だ。
 人の真実を描こうとするのか、人を型に嵌めるためのものなのか。
 こうあって欲しいという希望か、こうせよという強制なのか。
 観る側がどう反応するか、選択するかが重要となってくる。

 アヌイが、どうした決意をもって『かもめ』を問うたかは、
 勉強不足なのでしかとは分からない。
 けれど、刻まれた台詞から伝わる「世界を変えたい」という思い、
 真実を希求する生への真摯な賛歌は、
 こんな今の日本であるからこそ静かに、かつ力強く、響く。
 と、以前観た後半と前半を反芻しながら、眠気の中で感動した。


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August 24, 2007

感応する心という鏡  国立西洋美術館『パルマ―イタリア美術、もう一つの都』/常設展


 

 きょう、国立西洋美術館で今週末までの
 『パルマ―イタリア美術、もう一つの都』展へ。
 会期末なので少しこんでいました。

 修士論文でも援用したパルミジャニーノやマニエリスムの
 作品に、こんなに多くの人々が群がるのかと隔世の感です。
 パルミジャニーノのねっとりした陰影ある色彩、肉感は独特。
 残念ながら『首の長い聖母』は素描画のみでしたが、
 同コーナーの『クッションをもつ女性』の後姿は、
 彼だから描ける、女性の可憐さだけを表象したかのよう。
 “貞節の人”『ルクレツィア』もこの世の美ではありません。
 “聖と俗の絵画―「マニエーラの勝利」”というコーナーでは
 そのコーナー名のとおり、すべての作品がケレンミたっぷり。
 でき過ぎ具合が気持ちよくて笑ってしまいました。

 しかし、今回の企画展で一際光彩を放っていたのは、
 アレッサンドロ・ファルネーゼでしょう。
 寓意たる都市パルマに抱かれた幼いアレッサンドロ、
 それから数年後、レパントの海戦(1571)で活躍する姿を
 髣髴とさせる繊細にして凛々しく美しいポルトレ。

 最後はフランスのアンリ4世に敗れ、死したとのこと。
 いかにも16世紀的貴族の生涯というほかありません。

 とここまで書きましたが企画展のあと、常設展。
 カルロクリヴェッリの作品があるのにはびっくりしたのに加え、
 実際、こちらのほうが今の僕には響いてきたのが本音です。
 クールベが描く、今まさに死と生の叫びを上げる罠にかかった狐。
 そして、うねる海原から繰り出される『波』に心ざわめき、
 ピーテル・ブリューゲルが父の作品を模写した冬景色や、
 シスレーの曇天と緑の風景画に心洗われました。

 夢があった学生時代と、生い先分からない今とで、
 感じ入る作品が違って当然ですよね。そりゃ。


自己犠牲の具現 〜カレーの市民

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August 20, 2007

音楽づいて眠れない



 土曜日午前11時〜月曜日午前2時。
 この間の睡眠が通算3時間弱。
 眠れぬ“バロック音楽付いた”2日間でした。

 土曜日泊まり勤務前に晴海トリトンスクエア第一生命ホール、
 『東京ムジーククライス■第1回定期演奏会』へ。
 
 演奏曲目■J.S.BACH
 “Wir danken dir, Gott, wir danken dir” BWV29
  《神よ、我ら汝に感謝す》 カンタータ29番
 “Magnificat in D” BWV243
  《マニフィカト ニ長調》
 渡辺祐介■指揮/バス、松井亜希■ソプラノ1、
 澤江衣里■ソプラノ2、上杉清仁■アルト、
 藤井雄介■テノール、東京ムジーククライス■合唱/管弦楽

 指揮者の渡辺さんはふだんバッハ・コレギウム・ジャパンの
 合唱で歌われていて、まだソロを聴いたことがなかったので
 無理してでも演奏会に足を運んでみました。
 アルトの上杉さんは先日のスカルラッティ音楽祭に続いて。

 東京ムジーククライスは学生や社会人が集まっての楽団、
 久々に大人数の合唱団で聴きました。エネルギー充実な演奏。
 渡辺さんのソロを初めて聴いたのですが想像以上に美声。
 指揮ぶりもエネルギッシュでさすが。また、第一ソプラノ
 松井さんの声量と透明感を併せ持った声が新発見でした。
 
 楽曲は祝祭的で聴き所満載な2曲。バッハ初心者の方には、
 ぜひこの「マニフィカト」がお薦めです。
 今後はより磨きをかけてもらい、陰影ある演奏を期待します。
 通奏低音チェロ山本徹さんと指揮者の固い握手が印象的でした。

 さて、それから周辺をぶらぶらして職場へ。
 そして日曜日昼すぎ、帰宅してそのまま徒歩で梅ヶ丘へ。

 院生時代、研究会でお世話になった先生主催、
 (以前書いたマラン・マレ音楽祭で天皇陛下のエスコートも)
 会場は藝大、桐朋などで教鞭をとられるフランス人の先生のお宅で
 ひさしぶりにみんなで歌う会が開かれました。
 音楽の専門家からフランス音楽研究者、仏教学者、元キヤノン社員
 などなど幅広い方々が集結。美酒もお料理もそろいます。
 デビュー前、フランス留学前のソプラニスタ岡本知高さんと
 一緒に歌ったことがあるのも今は昔。
 
 僕はコントラルト(アルトよりは少し高い)が出るので、
 メサイアのアリアを思いっきり歌わせてもらい眠気も覚めました。
 そしてもちろん、合唱は楽しいの一言。難しかったですが。
 なにせカラオケでさえここ数年、いってませんので。
 約束があったので途中退席したのが心残りでありました。




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August 13, 2007

不二なる夕景







 

 きのうは澄んだ晴天。
 ということで、また恒例羽田空港写真撮影会へお付き合い。
 僕はあとから赤い電車に乗って友人に合流しました。
 ほんと、京急車窓からの眺めは独特な感じです。ビッシリ。
 それにしても泊まり明けでヘロヘロ、眠かった。
 おごらせてKIHACHI PATISSERIEの「杏仁豆腐とフルーツ」を
 食べて元気になれました。想像以上においしかったのです。
 ただ、2本差してある枝状マカロンがパックに入っていて、
 それをつまむ様が“お骨拾い”みたいでゾっとしました。
 8.12から22年の当日にしてはキツイ二重写しという他ないです。

 友人は気軽に周囲の“同業者”の方々と話しています。
 中には航空機専門ではないけれどプロカメラマンさんもいて、
 この季節にこんなきれいな空は珍しいとのことでした。
 実際、雲も少なく、遠くに望むミッドタウンが夕日を受けて輝き、
 富士山も久々に望むことができました。               

 僕もみるばかりでなく早くヒコーキ乗りたいな、ですが
 9月16日までお預けです。当日、晴れますように。 


















 

August 12, 2007

望む花火




 昨晩、泊まり勤務の休憩時間に夕食をと社食へ。
 すると何やら屋上に人がいっぱいいると思ったら、
 東京タワーや東芝本社の間方面に花火が上がっている。
 ご存じ、東京湾花火大会でした。




         
 
 臨んで花火を見たのは数年前の横浜で。
 たいていは家からたまがわ花火大会や職場からの東京湾。
 あ、家の踊り場から江戸川のも望んだことがあります。
 ただ暑さと大混雑はいやなので、これくらいがいいのかも。
 美しいものは遠くから、が僕の分相応です。


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August 08, 2007

シメールとの夜   「ルドンの黒 Les Noirs de Redon」



 月曜日、渋谷Bunkamuraで開催中の
 「ルドンの黒 Les Noirs de Redon」を訪れました。

  

 さながらヒエロニムス・ボスが描く異形のものたちが、
 洗練されて『夢のなかで』立ち現れたよう。
 付された解説を読んでいくと、目玉や頭を運ぶ気球、
 花の代わりに顔が浮かんでいる植物は、
 ルドンが植物学に傾倒したり、フランスの普仏戦争敗北、
 気球がプロシアに包囲されたパリの通信手段だった、
 といった背景があるとのこと。

 科学技術の進歩、資本主義の高度化、象徴主義の混沌。
 19世紀末、“キマイラ”が生まれるのは必然かもしれない。
 同じように変革期たる15〜16世紀ルネサンスでもキマイラは
 美術、文学上に頻出する時代の象徴だった。
 ルドンが描くキマイラの表情はいたって冷静だ。
 それと同じくらい、彼が描く“狂人”も覚めた硬い表情をしており、
 思考の狭窄を暗示する鋭角を外に向けた三角形が顔に重なる。 
 そして現代、最新科学のもとで新たな“キマイラ”生まれ、
 その姿は禍々しい化け物ではなく、一見変哲ない羊だったりする。
 しかし内実はキマイラ同様に、異相のものなのだ。

 そうした一連の「黒」の世界の中で、彼が描いた風景画の孤高美
 が強く印象に残る。やわらかい瑠璃色の空の下の麦秋の畑。
 草原に大きく、しかしひっそりと存在する薔薇色の岩。
 有名な花瓶の華やかな色彩よりも、ずっと清澄で美しい。
 靉光もそうだったが、幻視を描く画家の、人として生きねばならい
 バランスをとるための対極をそれらに見る気がした。
 
 噴出する狂気と、穏やかに強く描かれる静謐は、
 画家自身の中で幾重にも層となり、
 隆起し、陥没し、ならされているに違いない。



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August 07, 2007

子ども心を描く  ―磯光雄監督にみる



 磯光雄というアニメーターさんがいます。

 といっても、僕が知っているのは2作品だけですが、
 その一つが今NHK教育で放送されている『電脳コイル』の、
 監督、脚本、コンテを担当されています。すごいことです。

 そしてもう一つは『ラーゼフォン』(2002)という、
 物語全体は面白いながらも“エヴァ”の影響を大きく
 受けた作品があります。
 しかしその中の一話に、その物語全体では負の役割を担い、
 冷徹な人物像をもった登場人物の、子どもの頃の挿入的な物語
 (第15楽章 子供たちの夜-Child Hood's End-)があります。
 そして、その物語の脚本などを磯さんが担当されていたのを
 知ったのは後からでした。僕が『ラーゼフォン』DVD-BOXを
 買ってしまったのも、このエピソードがあったから。
 そして、朴璐美さんを初めて意識したのも同作品でした。

 先週土曜日に放送された『電脳コイル』「最後の首長竜」と、
 その『ラーゼフォン』「第15章」のテーマは同じでした。
 
 ともに少年(見た目・境遇は異なる)が、異形の“怪物”、
 それも人間の手によって作られた、あるいは人為の副産物として
 生まれた“怪物”と心通わせるものの、失う、というもの。
 『ラーゼフォン』においてそのエピソードは、その少年が
 のちの現実主義者・利己目的追求者へのきっかけとなっています。
 また孤独な“怪物”も住処を追われ「親の元へ/仲間の元へ」
 という、本来生命でない存在が持った生命故の本能によって動く。

 子どもだって、それを愛することがどこか悪いことであるのは
 分かっている。でも、それが刺激的であり、それ故にいとおしく、
 愛着をもつものです。また強弱はあれど二人の少年は自分と
 その“怪物”の境遇に自分を重ね、思い入れをするのです。

 自分にとって大切で、唯一だと思っていたものを失う。
 それが世間とは違う価値観である。
 それを認識するのが、やはり子どもが大人になることなのか。
 そこで道が大きく分かれるのが、
 違うから一緒にしてしまえと自己矯正するのか、
 世間がそうなのは分かる、でも違うのが自分なんだ、なのか、
 世間なんかどうでもいい、自分は自分なんだと突っ走るか。
 
 子ども心とその喪失を描くのに、一番僕はこの磯さんという方に
 共感するのでありました。


reversible_cogit at 11:26|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)アニメ 

August 06, 2007

刻む



 日本人として、きょうのこの日を忘れない。
 広島人の血を引くものとして、ここに書かねばならない。
 キッシンジャー元米国身長官がいうように、
 米国が核兵器を保持する限り、核の脅威は拡散し続ける。
 米国が他国の非人道政策を非難するなら、
 最も非人道的な兵器を放棄すべきだと日本は米国に迫るべきだ。
 核武装論者の丸川珠代よ、小池百合子よ、
 被爆者の声を聴け。持論を叫ぶのはそれからだ。




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August 02, 2007

一人彩色   『新撰組異聞 PEACE MAKER』(東京初日)

 



きのうは久々に茜空
 

 目が覚めたら開演13分前!!!!
 夜勤明けで午後4時まで起きていた罰が当たったのです。
 開演は午後7時。場所は渋谷区初台の新国立劇場。
 向かいながらいつも開演後に遅れて入ってくる人をみて
 目を細めていたのですが、まさか“あすは我が身”とは…
 なんとか開演7分後にして席についていました。
 電車の連絡がよくて、初台が近くてよかったです。

 『新撰組異聞 PEACE MAKER』(初日)
 脚本/構成■吉谷光太郎、演出■大塚雅史
 出演■郷本直也、柄谷吾史、矢崎広、田中照人、古川貴生ほか
 を観てまいりました。
 2年前、初めて矢崎広という俳優を知ったのも新国立劇場。
 そして三度、この地で矢崎広出演の舞台を楽しんだのです。

 物語は題名どおり幕末京都が舞台。新撰組を換骨奪胎した
 トラジコメディ。こうした歴史ものに登場人物が持つ個人の
 非政治的なトラウマや兄弟関係を織り込み、また同時に、
 山南敬助と土方歳三の目的達成にかかわる価値観をぶつけるのも
 いかにも今風といえるだろう。 
 敢えてなのか暗くなるのを避けるためか、舞台で描かれるのは
 「池田屋事件」まで。幕切れはさわやか。

 舞台前半はどうしても軽さばかりが目に付いたものの、
 物語が進行するにつれて人間関係が描かれ、仕掛けも功を奏す。
 ライトを効果的に使い、暗転が多くても気にならないのがいい。
 俳優陣も個性豊かでおもしろい。柄谷と郷本がケレンミたっぷりだ。
 そして今回の見どころ、矢崎広が忍びの姉弟の一人二役を演じる。
 178cmの長身故に和服が不釣合いながらも京言葉で雰囲気十分。
 一方、忍びの黒衣は鋭い印象を。声優としても主役を張る美声は
 舞台全体にメリハリをつけ、歌わないのが物足りないくらい。
 この後、二役の演じ分けを深めていけばより説得力が増すだろう。
 ほかに特筆すべきは何役もこなした古川貴生。とくに矢崎の
 敵役としての忍びはアクションに加え人物像的にもおもしろかった。

 それにしても会場は女性ばかり。
 というわけで場違いなので、ささっと帰ってきた次第。
 でもスリリングで、満足な一夜なのでありました。


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August 01, 2007

侵蝕/劇中劇  デヴィッド・リンチ監督『インランド・エンパイア』



 古今東西、“劇中劇”がさまざまな効果を齎すことは
 もはやいうに及ばないでしょう。
 有名なところではシェークスピア『ハムレット』(1600頃)のそれ。
 ハムレットは、父王暗殺の真相を劇中劇に託し、
 母と叔父の姦淫と陰謀を宮廷内で白日の下にさらす。

 一方、バロック演劇で有名なのはフランス、1645年の作品、
 ロトルー『聖ジュネ正伝―Le Véritable Saint Genest―』。
 同作品で劇中で異教徒であるキリスト教徒を演じる主人公が
 “演技”で受けた洗礼によってキリスト教徒化してしまう。
 最後には実際に処刑されるという内容で、『ハムレット』が
 あくまで劇中劇が現実を動かしていくのに対し、同作品では
 劇中劇が現実を侵食し、主人公にとって世界は反転する。

 月曜日、デヴィッド・リンチ監督『インランド・エンパイア』を
 恵比寿で観て、この『聖ジュネ正伝』を思い出した。

 果たして、この作品に主人公はいるのだろうか。
 いるとするなら女優とひたすら涙目でテレビ画面を見つめる女。
 突然家を訪れる血走った目の老女に促され、女優は落ちる。
 きのうはあす。時間軸は崩れ、自我は溶けていく。 
 それにしても、こうした物語をなんとかカタルシスに
 もっていこうとするところがスゴイと言わざるを得ない。
 『マルホランド・ドライブ』では女優志望がラビラントを
 彷徨したけれど、ここでは「女優」ならではの行く末に。
 実際、あれがカタルシスなのかどうか分からないけれど、
 長い長い酩酊の後では、あれは確かにそうなのです。

 帰り、どうしても小腹がすいてシブヤ西武の地下1階、
 イートインで卵かけご飯を食べました。うまかった!
 ああした映画をみて食欲を刺激される自分の貪欲さが複雑ですが。


reversible_cogit at 13:26|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)映画