June 2007

June 30, 2007

われわれがいる分岐点



  一般的な常識と、
  この世の中に少しでも正義というものがあるのなら。
  そして、ほんの少しでもこの国に、
  議会制民主主義というものが根付いているのなら。
  今回の参議院選挙、
  「安倍自民勝利」は、あってはならない。

  法案内容が付け焼刃であり、
  ザル以下であることを百万歩譲ったとしても、
  もっと根本的な、議会制民主主義の前提が破壊された。
  もしも今国会が是認されるなら、
  議会は多数党が選挙で決まった時点で、
  自動的に少数党の議席を多数党に割り振ってしまえばいい。
  多様な意見の摺りあわせ、チェック機能は不要。
  
  結果、そこには必ずやってくる破綻、
  沈潜する腐敗が待っている。
  一党支配、多数独占の政治は絶対に機能しないことは、
  歴史が証明し、火を見るよりも明らか。  
  しかし「歴史が証明する」とは「そう成り易し」、
  という謂いでもある。
  
  権力は濫用されるものだ。
  まさに安倍など、あったことをなかったこと、
  なかったことをあったことにする代表格ではないか。
  彼は己がコンプレックスを覆うに、
  誇大な妄想が必要なのだ。国民生命を道連れにしても。
  今回の選挙、なんとしても政治を、
  ぼくたち、私たちの手に取り戻さねばならない。
  今回の選挙、
  日本の民主主義が、生きるか死ぬかの分岐点に他ならない。




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June 26, 2007

理不尽のことわり 野田秀樹 演出と脚本、筒井康隆原作 『THE BEE』


 
 きのう、友人たちとと牡蠣を食べました。
 岩手産、アメリカ産、そしてオーストラリア産。

 東京の池袋に集結させられた彼らは、
 生のまま、そして極上のフライにされて僕のおなかの中に
 消えていきました。お供はChablisとOPERA BRUT。
 加えて同店の名物料理ガンボもスパイシィー&デリシィウー。
 広島(母の郷里)の牡蠣もいいですが、やはり旬が一番。


 土曜日、野田秀樹の演出と脚本、筒井康隆原作
 『THE BEE』(日本版)をシアタートラムで観ました。
 秋山菜津子、近藤良平、浅野和之そして野田秀樹が出演。
 映像に奥秀太郎が参画。

 帰宅してみると、妻と息子が立てこもり事件に巻き込まれている。
 もはや家には近づけず、警察とマスコミが取り巻いている。
 自分を「被害者の役回りが出来ない」と切れた男が、
 立てこもり事件を起こしている男の妻と息子を同様に盾にし
 その家に立てこもる。目には目、歯には歯の報復合戦。
 暴力の理不尽を、1時間数十分の作品に凝縮する。

 どんなに無体で、惨たらしいことであっても、
 人は反復され、強制されていくと心は壊れ、慣らされる。
 権力に服従し、思考は放棄される。
 野田は「良い人」から変貌する狂気のサラリーマンを、
 秋山は一人の女と母という記号を見事に体現、
 近藤、浅野ともに何役も演じ分ける。

 背筋が凍る。予定調和ならぬ、予定的破滅の姿。
 もはや抗えない蟻地獄に、観客もろとも落ちこんでいく。


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June 21, 2007

割り食うのはいつも・・・



 あぁ思いついたんだなぁ、と、
 渋谷のシエスパ爆発事故や、北海道のミートホープ製造の
 豚肉混入牛(時に全部豚肉)ミンチ事件に接していると。
 前者の社長さんは自分がバリ島にいったときに経験した
 スパの極上さが、これなら日本でイケル!と思った。
 ミートホープの社長さんはどうぜ混ぜりゃ分からないし、
 このほうが安くついて一石二鳥だ、と思いついた。

 実際、シエスパ以前から前者の社長さんは岩盤浴ブームの
 火付け役となって、投資者をみつけてあの座に就いた。
 後者の社長さんも、実際やってみたら誰も食べても気づかず
 「牛肉コロッケ」はヒット商品になるわけです。
 ただ、温泉掘るはいいけれど、そこに付随する副産物、
 リスクには有頂天だから気づかないし、なにしろ思いつき、
 概念先行だから知識もきっとなかったんだと思います。
 また、肉のほうも社内に少しでも良心があって、あのいかにも
 俺様でいざとなると部下に責任擦り付ける姿勢に反吐が出る
 社員が一人くらいいると思わなかったんだろうな。

 温泉で癒やされるのも結構。実際、気持ちければOK。
 結局知らされるまで違和感なく食べていた数十万単位の
 消費者も結構。それで夕飯、お弁当の一品が埋まれば上等。

 ただ、なかなか裏表がないというのは難しい。
 都心の真ん中で温泉掘り出すというのはやはり特殊だし、
 安い冷凍食品にはそれだけの理由があるわけです。
 可燃性ガスも出るし、腐った肉を塩素系消毒剤に漬けこむ。
 キレイで心地いい別世界も、安全とされる生協の食品も、
 ともにしっかり裏づけがあった。
 前にもガス炎上の事件はあったし、生協の冷凍ほれんそうが
 中国産で農薬いっぱいという事例はあったのに忘れてる。

 ただ悲しいかな、
 巻き込まれて死ぬのは安い賃金で働かせられていた労働者だし、
 健康害するのは安くていいものを求めるエンゲル係数高い家庭。
 結局、そうした大掛かりな思いつきに引きづられて損するのは
 僕も含めたそういう階層なんですよね。
 ならば毒も偽善も食らわば皿まで、と思わなくもない今日この頃です。



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June 20, 2007

妄執と執念と デビット・フィンチャー監督  『ZODIAC-ゾディアック-』


 『セブン』『ゲーム』のデビット・フィンチャー監督『ZODIAC』、出演はジェイク・ギレンホール、ロバート・ダウニーJr、マーク・ラファロ、アンソニー・エドワーズ、ブライアン・コックスほか。実話に基づく物語は、カリフォルニア州サンフランシスコとその周辺の地方都市を舞台にした連続殺人事件をめぐるもの。上映時間は長めだが、それはこの作品には確かに必要な尺だと劇終後ひしひし伝わってくる。

 ゾディアックを名乗る犯人は暗号を新聞社に送りつけ、警察や新聞関係者に謎解きを迫る。情報や証言が錯綜し解決は困難化、間隔を置いて10年をかけて犯人は手紙を書き続ける。そこに巻き込まれるのが担当刑事二人(M.ラファロ、A.エドワーズ)、そして新聞記者(R.ダウニーJr.)、同新聞社の風刺イラスト担当(J.ギレンホール)だ。当初、思惑は別にして前3者が積極的に解明に乗り出すものの犯人と思われるものが次々と「白」となってしまい1歩進んで2歩さがる状態。一人は異動して家庭に帰り、一人は身を持ち崩し、一人は敢えて忘却しようとする。そこに、それまで興味をもちつつ傍観していたイラストレーターが謎解きに挑もうとするのだが・・・。

 殺人自体の描き方は陰惨を極める。躊躇なく、悪意と謀略に満ちている。一方、センスある音楽にのせて60年代70年代のサンフランシスコが描かれる時代映画でもあるだろう。一番印象に残るのは有名な四角柱のトランスアメリカビルがCGで建設されていく様子がコマ送りで再現され、時間の経過を示唆するのが楽しい。また、テレビが新聞とメディアとして肩を並べ、もうすでに家族関係や人間関係は都市化しているし社会不安(描かれはしないはヴェトナム戦争もあるだろう)が覆っている。かといって、親子関係が冷め切っているかといえば、そこには一つ一つの家庭が在り、子どもたちの笑顔がある。登場する郊外の若者たちのファッションや車、街の様子が独特で強烈な匂いを放っている。

 結末はない。誰も救われないし、例え生きていたとしても犯人だって平穏なはずはないだろう。あるのは、時代にボコンとあいた磁場の窪みに鬱積した妄執の産物と、それに足をとられ、嵌ってしまってなんとか上手く抜こうとする人間の執念。足元ばかり見ていると、今まで目の前にあった大切なものさえ忘れてしまう、狂気に近い毒素が嵌った足から脳も身体も侵食されてしまう。ある登場人物がいう「仕方のないこと」。もはや不条理の叫びを上げて死んでいった犠牲者の声ではなく、概念としての凶悪が残るのみ。こうして時代は、歴史はすべて呑み込み、その様々な想いを溶かし込んで流れていく。


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June 15, 2007

記号の王国、にて  劇団、本谷有希子 第12回公演 『ファイナルファンタジックスーパーノーフラット』



 昨晩、雨の吉祥寺。
 駅前から吉祥寺シアターまでの道のりには個性的なお店が
 たくさんあって、各店から漂ってくるおいしそうな匂い。
 有名な「いせや」の仮店舗もあったりして街並みも既に劇場。
 現区長のおかげ様々で下北沢も変貌せざるを得ないようですが、
 せめて吉祥寺のように機能化してもらいたいものです。
 そういえば武蔵野市の市長さんは「憲法9条パンフ」を
 配布するようなが方だったんだっけ。住みたい〜

 そして肝心な観た作品は劇団、本谷有希子 第12回公演
 『ファイナルファンタジックスーパーノーフラット』。
 なにをさておきいうなら、刺激的でおもしろかった。
 バッハのコンサートが耽溺した興奮だったら、
 きのうの興奮は頭が醒めて、どこか爽快な興奮でした。
 出演は高橋一生、すほうれいこ、笠木泉、ノゾエ征爾
 吉本菜穂子、松浦和香子、高山のえみ、斉木菜奈。


 舞台は休業中の遊園地。そこのオーナー、トシロー(高橋)の
 下に従業員縞子(笠木)、女たち(うち一人はニューハーフを自称
 /松浦、高山、斉木)が集っている。彼女たちは一様に、
 トシローが信奉する「ゆく」という女性の格好(ボブヘア、
 髪飾り、白いブラウス、青いスカート)をしており、
 彼女はどうやら同園の観覧車で“死んだ”らしい。
 縞子が事務的な調整役となって彼女たちを集め、
 トシローが理想とする“世界”を構築しているようだ。
 そこに女の一人で小説家の琴音(吉本)を連れ出すべく、
 夫(ノゾエ)と彼女の代筆者で夫の愛人(詠子)が闖入。
 その“世界”に投じられた一石の波紋が、
 あらゆる真相を波間に暴いてく…

 
 
 トシローは常にウサ耳を着けていて、それを自分のRaison d'être
 だという。彼の中で二次元の、不変な女性が絶対であり、
 生身の女性を異化しない。大学生になってもブリーフなのに
 母親の前でナマ着替えをしてしまう。そんな彼の崇拝は、
 「ゆく」という存在に凝縮し、一方で、彼自身さめた自分が
 記号化の意味がよく分かっている。半端に記号化された女たち。
 遊園地は記号の王国だ。世界が記号の集合体なら、そこは
 記号に特化した世界。女たちは生活の中で世界と自分との
 齟齬に苦しんできた者たちで、「ゆく」という記号に自分を
 当てはめ、トシローの理想の女になることが、違和感や
 そこにもおきる差異を差し引いても心地よいと感じてしまう。

 物語の構成が見事。かちっかちっと理路とはまっていく部分と、
 それを支える人間のさがや悲しさの収まらない部分のバランス。
 廃れた遊園地など、もはや破局は約束されたような磁場を持って、
 ここまでスリリングな筋を展開できるのは今も拍手をしつつ
 興奮したのを思い出す。
 高橋一生はテレビだと優男役が多いのに、前回の舞台でも
 そうだったが、影とプライドが混在した色男を演じ、うまい。
 吉本の独特な声が、舞台に強烈な別の色を加えて効果的だった。
 舞台美術は機能的、音楽は舞台の感情をうまく演出する。 

 本谷有希子、遅ればせながら楽しみ楽しみ。



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June 13, 2007

生きてて良かった!  バッハ・コレギウム・ジャパン 第77回定期演奏会



 その、第一小節が奏でられるや、
 脳の芯が振るえ、鼓動高鳴り、瞳孔が開いた。
 足ペダルが入ると更に血流は速くなり、
 過剰にメロディアスな、地底からのうねりに、
 眩暈。 



 先程まで渋谷・初台の東京オペラシティコンサートホール、

 鈴木雅明 主宰、指揮
 バッハ・コレギウム・ジャパン 第77回定期演奏会
 J.S.バッハ:教会カンタータシリーズ Vol.49
 〜ライプツィヒ時代1725年のカンタータ 7〜

 を聴いてきました。演奏歌唱は野々下由香里(ソプラノ)
 ロビン・ブレイズ(カウンターテナー) 
 櫻田亮(テノール)ペーター・コーイ(バス) 
 今井奈緒子(オルガン)若松夏美(コンサートマスター)
 鈴木秀美(チェロ)鈴木優人(チェンバロ)
 前田りり子(フラウト・トラヴェルソ)
 今野京(ヴィオローネ)渡辺祐介(3rdバス)ほか

 曲目は
 ブクステフーデ■プレリューディウム ト短調 BuxWV149
 J.S.バッハ■コラール編曲「いざやもろびと神に感謝せよ」BWV657

 《主なる神は日なり、盾なり》 BWV79
 《主を頌めまつれ、勢威強き栄光の主を》BWV137
 《汝ら、キリストの者と名のる徒》 BWV164
 《務めの報告をいだせ!と轟く雷のことば》 BWV168

 
 この定期演奏会、パイプオルガン独奏曲で幕開けするのが通例で、
 今回も今井奈緒子さんによる前2曲がオルガン独奏曲。
 そしてまず、バッハの師匠であったブクステフーデの作品が
 演奏されるや否や、冒頭のような大波がやってきたのです。
 またきょう初めて3階バルコニー席だったので
 オルガン演奏席がいい具合に見下ろせる位置。
 正面から響く荘厳に、かけつけ一杯のワインも効果絶大。
 続くバッハのコラールが真逆の、たゆたうような優しい音。
 夕日さし、穏やかな風そよぐ河の岸辺をゆっくりと歩むよう。
 幸先が良すぎでした。

 そしてオーケストラと合唱、鈴木雅明さんが入場。
 BWV137はトランペット、ティンパニも入る華やかな合唱で始まり、
 楽しい楽しい。そして第2曲に入った途端、新たな驚き。
 その旋律はいつもオルガンで聴いているシューブラー・コラール
 の一曲と同じで、僕が一番好きな最終曲でした。
 曲調は明るいのですが、どうにも切なくて、つらいとき何度も、
 もう15年以上聴いてきた曲なのでした・・・
 ヴァイオリンのソロと、カウンターテノールの優しい旋律。
 下を向いているからもうだめ、同曲を聴いてきた思いだけが
 抽出され、涙がポロポロ落ちてきて恥ずかしかった。

 戒めと悔悟を主題とする中2曲の
 ナイーブで激しい展開にどきどきし、
 本日最終曲BWV79の冒頭合唱はミサ曲ト長調で
 馴染みある旋律をフーガで各パートが演奏、歌い、
 またソプラノ&バスの二重唱の白銀の如く輝くアリアが
 印象に残りました。
 やはりソプラノの野々下さんの声は素晴らしい。凛として清澄。
 トラヴェルソの前田さんの音がなかなか聴き取れなかったのが
 残念でありました。

 バッハ好き、とかいいながらほとんどカンタータは手付かずです。
 でも、それもいつまでも楽しみが多いということ。
 ほんとうに、冗談じゃなくて、演奏聴きながら
 生きてて良かった!と実感しました。



reversible_cogit at 23:13|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)コンサート 

June 10, 2007

静かに握ったこぶしの如く







 
 旅行に行くわけでもないのに、
 にゃっらっぁ〜ん、じゃらぁ〜ん♪が耳から離れない
 きょうこの頃。

 金曜日の朝日夕刊に「エチエンヌのクールジャパン」という
 欄があって、毎回、フランス人ジャーナリストから見た
 日本文化の「クール」な面を楽しく書いているものがあります。
 店で促販用に設置されたDVD再生機が盗まれないという事実
 (確かにフランスだったら盗まれそう)、社員が会社前を
 朝掃除する風景(例えばパリは民間業者に委託。街は汚い)、
 そして先日はジュリー・ドレフュスさんが5本指の靴下愛用だとか。
 
 日本人には当たり前な光景でも、異文化から見れば驚きがあり、
 クールなんだと教えられると少なくともうれしいですよね。
 日本人の血じゃなくて、文化。
 どこかのゴリゴリおじさんやおばさんが誇張する血ではなく、
 国民の総体として培われた文化なら誇りたいし、学びたい。

 きのうテレビで放送された映画『県庁の星』を見ました。
 あんまり評判も良くないし、実際ありきたりな内容なのは確か。
 ただおもしろかったのは、柴咲コウが「女はカタチがないものに
 金を払う」と指摘していたけれど、県庁エリートとして意識が
 硬直化した織田裕二もカタチのない「権力」に守られていると
 勘違いしている。
 女も男も、カタチがないものに充足を求め、力を求める。
 その意識が個人か公かに向かう辺りが男女で明確に分かれている
 常套句的な描き方でつまらないのだけれど(上坂冬子や高市早苗、
 稲田朋美を代表とする女性の全体主義、国家主義者はいる)、
 後者のそれが容易に壊され、気づかされる姿は、
 それが実際にはなかなかないことだから、あるいはあっても、
 この映画で描かれているように大勢には影響がないという現実。
 それでも、我々はそこに安易なニヒリズムになるのではなく、
 どうすればより良いのかを冷静に考えたい。

 渋谷駅前交差点で、夜勤の帰りがけでみたデモ行進。
 乱暴に「憲法改悪はんた〜い」と叫ぶ様子にげんなりです。
 ささくれだった表明は、まったく人々の心に頭に届かない。
 前にも触れた、脇で演説している右翼青年の演説のほうが
 よほど説得力をもっているように感じられてしまう。
 こうしたとき僕がイメージするのは「静かに握ったこぶし」。
 感情を大切にしつつも理で支えるカタチなき平和は目に見えない。
 だからこそ、多くの人々に共有され、強力なのだと。
 ああした団体の皆さんには、そう認識してもらいたいものです。






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June 08, 2007

とどけ、日本人へ   試写会■佐々部清監督、こうの史代原作 『夕凪の街 桜の国』



 出会いはおよそ2年前、友人の紹介で知った作品。
 母が広島県出身、自分もその血をひいているという意識があり、
 その時点で特別な存在となって読後感はさらに強烈だった。
 以来、さながら「平和への思いのお守り」のように、
 身近に置き、思い出したようにそのページを繰っていたのでした。        

 そんな作品が映画になると劇場でチラシを手に取って知り、
 メルマガで試写会が開催されるということで応募しました。
 そして幸運にも当選、きのう、五反田の目黒川沿いにある
 IMAGICATHX採用第二試写室へ。
 佐々部清監督、こうの史代原作、『夕凪の街 桜の国』を
 鑑賞させていただきました。原作は第9回手塚治虫文化賞新生賞、
 平成16年度文化庁メディア芸術祭漫画部門大賞を受賞。


夕凪の街桜の国
 

 物語は前半「夕凪の街」が原爆投下から13年後の広島を、
 後半「桜の国」は現在の東京を舞台にしています。
 皆実(麻生久美子)は母(藤村志保)と共に被爆しつつも
 生き延び、設計会社の事務員として働いている。同僚の打越
 (吉沢悠)と淡くお互い惹かれあいながらも、彼女は素直に
 その喜びに身を任せられない。常に彼女の心は妹を、父を、
 友人たちを亡くした13年前の8月6日につながっていたから…
 七波(田中麗奈)は父(堺正章)と研修医の弟(金井勇太)と
 東京で暮らす。母(粟田麗)を17年前に亡くし父は定年の日々。
 そんなある日、何やら行動が怪しくボケが心配な父が散歩に
 出て行き後を追う。するとかつて住んでいた街の友人である
 東子(中越典子)と駅で出会い、積極的な彼女に押されて
 父がバスチケットを買った広島へと向かうことになった…


 母は広島出身だが、祖父が台湾で日本人学校の教師をしていて
 原爆に遭わなくてすんだ。けれど親類は被爆で多く亡くなった
 と聞いている、と「自己紹介」の一部として僕はよく話す。 
 それはやはり「原爆」というものを強く意識し、知り合った人に
 そうした事実を「思い出して欲しい」という願いがある。
 がしかし。本当に数年前に知ったことだが、実際の被爆者は
 被爆したこと自体を隠すし、その血をひくことも同様なのだと。
 被爆者は被害者でありながら、地獄からの生還者でありながら、
 ヒバク者という偏見の目に常にさらされ、あるいは座敷牢へと
 おしこめられた方々も少なくなかったと知り愕然とした。
 原爆は人間をあまた殺すだけでなく、何度も殺すのだ。

 この物語はそうした過酷な実情を、時を隔てた二人の女性の
 目を通して、命を通して描いている。
 「原爆」というものを、もうどうしようもなく背負わされ、
 けれどなんとか真っ直ぐ生きようとする二人。
 原爆とは何か、戦争とは何か、
 そして今、再び戦時態勢へと移行しつつある日本に住む
 我々は、いったいどうすればいいのか。
 こぼれた命、輝く笑顔を、多くの観客が胸に刻みますように。

 
 

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June 04, 2007

産み直し/夢の発現  『Life Casting -型取られる生命』 平山素子(振付構成)



 先週土曜日、新国立劇場で『Life Casting -型取られる生命』を鑑賞。出演は第一部平山素子(振付構成)/第二部酒井はな、木下菜津子、川口ゆい、木下佳子、宇佐美和奈、佐藤洋介、中川賢、平原慎太郎(Noism07)、柳本雅寛のみなさん。ヘア・メーキャップは資生堂BC研の上田美江子先生。

 第一部「Twin Rain」。光樹脂オブジェで造られた女性像と、平山が一対となって灰色の壁から湧き出ているようだ。やがて動き出す平山は、そこから空間を手探りで広げていく。おずおずとした動きには緊張がみなぎり、周囲に鋭い眼差しを向ける姿には「これから」への躊躇があるようだ。女性像に口付けをし、生気を得たかのようにダンスは激しくなり、やがてぱっくりと壁が一部開き内側から強い光が漏れてくる。そこに引き込まれる彼女は胎児退行を思わせ、その割れ目は女性器を想起させる。果たして、再び身体を丸めて舞台上に投げ出された全裸な彼女の周囲には羊水を思わせる液体がしたたる。産み直しイニシエーションは、何を意味するのか。  

 第二部「un/sleepless」。舞台奥には棺形の光る透明なハコがしつらえられ、その白い内容物が終盤には溶けるベッドと化す。顔を覆ったダンサーたちが不眠に伴う痙攣と共に、一人ずつ倒れていく。これは誰かの夢。その覆いが外されたとしても、ひとつの線で貫かれたダンサーたちは各々のパートの中において、目に見えない何かに支配されている。二対、三対、四対と男女混合の律動には眠りで現れるリズムのような力の緩急が強調される。とりわけ中川は群舞の発端となり、柳本は独立した柱の一本となる。暗転後、三人の女性ダンサーが揺らいでいる。夢は溶け合い、白く溶けたベッドに身を埋ずめる者は軌跡を残すだろう。他人が視ていたと思っていた夢は、己が夢だったか。
 


reversible_cogit at 10:58|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)ダンス 

June 02, 2007

みんな大変なんですね




 きのう夕方、職場へ向かうバスの中から空を見上げると、
 まだ夕景とはいえない青く高い空。
 そこには水彩絵の具で施したような雲が流れていて、
 どうしようもなく美しくて、
 ちょうど聴いていたUVERworldの楽曲とリリックの一節、
 「ねぇ答えはないよ
  今日の景色を
  忘れない様にと
  僕は息を止めるんだ」
 がじんじん響いてきて、途方にくれそうになりました。

endscape(初回生産限定盤)(DVD付)



 なのにきょう正午すぎ、夜勤明けで外に出ると広場では
 お祭りめいた催し(イタリアンフェア?)が広がっていて、
 雲はもう夏の雲でもうくらくら。バスではうつらうつら。
 宮益坂のいつものラーメン屋さんで昼ごはんを食べ渋谷駅へ。

 毎週必ず土曜日の昼、ハチ公広場では右翼の皆さんが街宣を
 していて、なかなかおもしろい。
 地方議員選挙で投票率が40%台なのはおかしい。
 皆さんが投票に行けば、しがらみにがんじがらめの議員など
 すぐに落とせるのに。労働組合票しかり、学会票しかり。
 求めたい結果は違えど、僕のようなへたれも右翼青年も、
 みんなが投票し政治を変えることに意義を見出していることは、
 どこぞの自由な民主主義党の元総裁で元総理のように、
 無党派は寝ていろ投票するな、とは隔世の感があります。


 井の頭線に乗って、新潮2006年6月号を開きました。
 本来この雑誌、「平野啓一郎×梅田望夫」の対談目的で
 買ったのですが、たまたまこのあいだ手にしたら、
 今度舞台を観にいく本谷有希子の小説が掲載されていたのです。
 舞台をみようと思ったのは、井上ひさし脚本『薮原検校』の
 ときにもらったチラシで、坂東三津五郎、片桐はいり、
 近藤芳正、酒井敏也、山西惇、田中美里という俳優陣が出演する
 『砂利』という本谷氏原作の舞台があると知ったからです。
 すごい面々。どんな舞台か楽しみになったのでした。
 
 ところが先日、「トップランナー」に本谷氏本人が出演、
 それを見ていておいおい大丈夫かよ心配になったところに、
 同氏の『生きているだけで、愛』が目の前に現れたのです。
 そして早速読むことにしたのですが、
 ほんのまだ冒頭です。主人公はどうやら鬱の仕様もない女。
 が、しかし。
 これがおもしろい。文体がすんなり入ってきて楽しい。
 僕は文体がだめだとぜんぜん読めないのでこれはラッキー。
 これからが楽しみです。


 いつものように駅前のスーパーで酢ドリンクを買って帰りました。
 石川の警官は自分で自分を刺して自作自演、
 井の頭線渋谷駅では、一見ふつうなおばあさんが
 あのミッキーマウスのような高い声で、
 「私に触るな!触るな!!」と叫んでいました。
 黄緑色のセーターと長髪の白髪が目に焼きついています。
 僕も大変だけど、みんな大変です。




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