November 2006

November 28, 2006

希望を、つなぐ  アルフォンソ・キュアロン監督/脚本/編集 『トゥモロー・ワールド』


 「2027年、子どもが生まれなくなった世界。人類の存亡は!?」などとこんな凡庸なキャッチコピーが付された映画を多くの人が今さら観たいとは思えない。例えるなら『桜蘭高校ホスト部』をタイトルから「美形ホストが出てくるネチネチアニメ」だと勘違いし、生活を豊かにし損なってしまうようなもの。しかし『桜蘭〜』がそうであったように、きょう観た『トゥモロー・ワールド』(アルフォンソ・キュアロン監督/脚本/編集「Children of Men」)も予断を排して“2027年”を体感すれば、本作が“予想通り”のSF映画ではないことを確認するだろう。またジャンルを超えた音楽の多彩さ(キング・クリムゾン、マーラー等)を特筆したい。
 
 2027年ロンドン。始まって早々18年間子どもが誕生していない世界で最も若い少年(つまり彼も18歳)が殺されたと伝えられ、TVCMでは「外国人は不法入国者」と政府広告がうるさい。セオ(クライブ・オーウェン)はエネルギー省に勤めているものの反体制の学生運動に身を投じていた。ある日一子をもうけたものの亡くした元妻で反体制グループのリーダー、ジュリアン(ジュリアン・ムーア)が接触、キーという名の不法移民の娘に通行証を工面して欲しいと頼まれる。彼は文化大臣の親類を訪ね、自分のフィアンセのものとして通行証を何とか手に入れ、密航に同行することになる。しかし途中ジュリアンは狙撃され、その娘がなんと妊娠していることを知り、ジャーナリストで隠遁生活を送る父(マイケル・ケイン)母の協力も得、艱難辛苦が待ち受ける彼女の脱出を手伝うことになる…

 あるいは結末や個々のエピソードを予見することは容易な映画だろう。なぜなら“子ども=未来”を巡る人々の行動は、ある種普遍的で純粋な衝動にかられてのものだからだ。セオの父はキーと息子たちを逃がすために愛する認知症の妻と犬、そして自らの命を犠牲にする。だが、彼に悲壮感はなく英雄的でもない。まるでそれが彼の当然果たすべき役割と踏んでいるかのように。自らの命が“未来”の一部になるのだと託したいから。これは以後の道程における人物たちも同様で、人種や性別、立場を超えて“未来”への強い憧憬が見えない推進力となってキーと子どもらを乗せた粗末なボートを漕ぎ出させる。
 
 中東やバルカン半島の戦争さながら、死屍累々の激しい戦闘が繰り広げられる不法入国者ゲットーで兵士たちは赤子の鳴き声に沈黙し、その空間の戦いは停止する。このシーンを見て乙一が『小生物語』で「赤ちゃんに落下傘をつけて戦場に降下させれば戦闘は収まるだろう」と書いていたのを思い出した。数多の死と一つの命。人は命という奇跡に、それが唯一とならなければ気づかないのだろうか。ただ本作の原題が『人類の子どもたち』であることに留意したい。その赤子がキリストのような一神教を象徴するものであるなら、複数形にはならない。世界は広く、未だ気づかぬところに希望はまだあるのだと困難なラストシーンを目にしてさえ、そう信じられる。


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November 24, 2006

北欧の太陽のように  荻上直子監督『かもめ食堂』

 
 たとえるなら絵本の世界。ヘルシンキの穏やかな海風と太陽、そして森、そこに住む悲喜こもごもの人々。ヒロインの「生活」を抜きにした穏やかな生活。現実にありそうで、なかなかない心地よい雰囲気と穏やかさ、そして魅力的なヒロインの登場する作品、『かもめ食堂』。荻上直子監督は『バーバー吉野』で子どもたちの成長、『恋は五.七.五』では高校生の青春を描き、今作では最早“自分を知る”人たちの物語を展開させた。劇場ではロングランし、公開当時静かなブームになった。

 舞台はフィンランド・ヘルシンキ。サチエ(小林聡美)が街角に開く「かもめ食堂」は光に溢れきれいなお店だけれどなかなか客が入ってこない。そこに日本マニアの青年トンミがやってきて、ガッチャマンの歌を知りたいという。思い出せないサチエは街の本屋で日本人ミドリ(片桐はいり)を偶然みかけ歌詞を教えてもらう。それが縁で彼女もかもめ食堂で働くことになり、やがて食堂にも街の人々が集うようになっていく…

 魅力は3つ。まず小林、片桐、もたいまさこを中心とした登場人物の楽しく軽妙なやりとり。次にヘルシンキの美しさ。海も市街も森もあり、等身大な生活が送れそう。そして何よりお料理。食堂で供される数々の和食。サチエが冗談交じりに日本人とフィンランド人は鮭が好きだから分かり合えるといったけれど、あの脂の載った鮭の塩焼きとダシ巻きタマゴが、香り高いコーヒーの香りとぴったりあっていそうでおもしろい。

 芯の強いサチエは、諦めとは違う達観をしているかのようだ。一人女性が日本から遠く離れたフィンランドにいること自体フツウではないし、彼女に引き寄せられる二人の女性も似た匂いを漂わせている。「生きるための労働」から解放されている彼女たちの生活感のなさ加減がこの映画の魅力を支え、監督の夢を感じさせてくれる。全部は無理かもしれないけれど、このサチエさんみたいな部分を少しでも持てれば、生きるって素敵じゃないですか、と。実際、彼女の柔軟な強さを身につけるのは難しいけれど夢は持ちたいな。

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November 22, 2006

それでも、なお



 先日のテレビ朝日『スーパーモーニング』。
 広島の18歳の少年。愛する父と母がいた。
 しかしながら父は殺人犯となって収監されている。
 父が殺したのは、母。

 彼の言葉は朴訥としている。
 今、週一回、父に面会しにいっているという。
 しかしここに至るまでは、僕の想像を絶する苦悶が
 あったに違いない。
 「父と会うことが今は希望になっている」と話す一方、
 「これはお母さんを裏切ることになって謝っている」と。

 ふだん気丈な女性コメンテーターが泣いていた。
 搾り出しながら、なんとか励ましの言葉。
 人は、こんなどん底に落ちたとしても、
 人生に意味を見出し前向きに生きていけるのだと
 感嘆せざるを得ない。

 少年少女の自殺が頻発する昨今を思うに、
 いじめという可変的な要因で苦しむ彼らに、
 この、理不尽で変えられない、どうしようもない運命に
 向き合って生きる彼の姿をみてもらいたいと強く感じる。
 保身に血道を上げる教師らの言葉より、
 幾倍も説得力があるのではないだろうか。

 「深き淵」から生還する途中の彼が、
 しっかり難事を成しえますように。


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November 19, 2006

二度観る/視る  フランソワ・オゾン『スイミングプール』

 
 フランソワ・オゾン監督『スイミングプール』(2004年)を観た。最後まで途切れない緊張感は見事で、日差し溢れる南仏という舞台設定と、謎めいた結末が絶妙のコントラストをみせる。

 ロンドン。人気ミステリー作家サラは旧知の出版社社長の南仏にある別荘へ気分転換に出かける。プールつきの広い屋敷、心地よい風、優しい日差し、きままな食事。どれも彼女の創作意欲を刺激するものだったが突然、社長の娘が現れ同居が始める。娘は毎晩違う男を連れ込み、関係は最悪に…しかし好奇心で読んだ彼女の日記から人となりに触れ、次第に言葉を交わし、お互いに心許しあうようになるが…

 一見、女として乾いてしまっているかのようなシャーロット・ランプリング演じるサラ。対照的な若く肉欲に興じるかにみえるリュディヴィーヌ・サニエ演じる社長の娘。しかし内実はうらはらでサラは尽きぬ創作意欲を源に密かに貪欲な生を求め、娘は父に捨てられた母と自分を重ねて父親ほどに年の離れた男と寝ることで穴埋めをしているかのようだ。表題でもある別荘のプールを軸に、彼女ら自身かつ取り巻くモノたちが、イメージとも現実とも判別のつかず刻々と変化していく。

 だが、そうした感覚が当然なのはまさに終幕数分間で得心が行くことになる。サラがそれまで書いてきた好評を博す“警察もの”とは一線を画す、別荘でまとめた新作とはどのような物語だったのか。この作品と同様な趣旨で時をさかのぼりつつ描くものはあるが、我々はこの作品でよりスリリングな同種の経験を脳内ですることになるだろう。本作を観る者は、この作品の終了とともに二度、この作品を“視る”のだ。


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November 16, 2006

描かれることによる不在証明  『デスノート the Last name』


 前編の小手先具合な内容にがっかりしたものの前編を観て後編を観ない手はないので、きょう渋谷シネパレスへ。男性木曜日1000円はここくらいなので。金子修介監督『デスノート The Last Name』は、前作を超えた内容ではあるものの、凡庸な結末であったことには変わりなかった。

 前作、デスノートで“犯罪者”を殺害してきた夜神月(藤原竜也)を身近に引き寄せた、彼を追うL(松山ケンイチ)。この両雄対決に新たな不確定要素(弥海砂:戸田恵梨香/レム:池畑慎之介)が加わって、彼らの勝負はどうなるのか。裏の裏をかく展開で“ゲーム”としては楽しめる作品となった。

 しかしこれは悪い意味でのマンガ原作なのだと、弥の登場、その理由、夜神に対する服従、家族が強盗犯に殺されたという安易な過去の設定などを目の当たりにするとそう思わずにはいられなかった。また迎える結末はほぼ想像通りのものであり、常識的な制裁が月には下されることになる。ただ救いは、前作同様変わりばえのしない藤原の演技に対し、松山の機微に富んだ表情が見応えあり。

 「“悪”への制裁」を巡るこの物語。結局大人気になったのはそこに多くの人々が超然的、絶対的な裁く力に魅せられたからだろう。ヒトラーにしろ、石原慎太郎にしろ、小泉にしろ彼らが人気を集めるのはそうした「手続きを無視した力」を民衆に見せることにあるのだろう。しかしそれはデスノートが絵空事であるように、そんなものは存在し得ないのだと多くの読者、観客が気付いてくれるだろうか。


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November 10, 2006

張りぼて内閣はもう結構


 以前から胡散臭いと思っていたタウンミーティング。
 「小泉劇場」の一環として開催されてきたらしいのですが、
 観客席はサクラでいっぱいだったようで。
 舞台から小泉が去った以上、もう無駄なんだからやめて欲しい。
 日テレ「NEWS ZERO」によれば、TM開催一回分の費用は
 1000万円前後だが会場使用量は70万円程度。残りの使途に
 ついて総理府は「ノーコメント」、だそうです。
 つまり、税金使って劇場小屋建てて、観客には金払って
 みに来てもらっていたということ…

 最近の教育・文部科学省(小泉のまねして、当事者なのに
 今の問題を他人事のようにしゃべるのは伊吹さん、
 やめて欲しい)の問題もすべて小泉政権下で進行してきたこと
 ですし、日本核武装化を暗に提言している閣僚もすべて、
 小泉政権の主要人物。更にここにきて、図に乗った大臣が
 NHKに放送命令ですってさ。いままで散々北朝鮮批判を
 してきたのに、「日本はアメリカの一州なんだから、
 6カ国協議に出る必要なし」と北朝鮮に言われても何も
 反応しないし(それが例え世界の常識であっても)、
 単なる強硬姿勢とは違う、正道をいく政治というものが、
 どうやら今の政権にはできないらしいですね。
 安倍総理を見ていると現ブッシュ大統領と似てるな〜と思う
 (外なる敵の存在に助けられ、世襲でバカ)し、
 姑息が背広着て歩いているみたいです(何で資産が2億弱?
 富ヶ谷の自宅さえ本人名義じゃないなんて…)。

 こんな張りぼて内閣、いつまで続くのでしょうか。
 小泉がぶっ壊した政治は、荒地のままで誰も再整備し、
 再建できないんでしょうか。



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November 09, 2006

“宝石”探しを  ロバート・ゼメキス監督『コンタクト』


 ロバート・ゼメキス監督、ジョディ・フォスター主演『コンタクト』。今からおよそ10年前。それまで映画は好きで観るほうでしたがこの作品に出会い、映画は人生の糧たりうる、と気付き、今では己が思考回路の一部になってしまいました。劇場で観たい映画がない今日この頃、せっかくならばと自分の中ではついに、この作品の“感想”を書こうと先ほど数十回目の鑑賞を終えました(録画でもLDでもDVDでも持っている)。

 エリー(ジョディ・フォスター)はアレシボ天文台で宇宙物理学者として地球外生命探査に打ち込んでいる。しかし政治屋でもある上司ドラムリン(トム・スケリット)によって干されそうになるが、巨大コンツェルン総帥ハデン(ジョン・ハート)の援助により国立電波天文台で探査を続行。ついに長年待ち続けた宇宙からの“コンタクト”に遭遇、そこに託された設計図を基に建造された転送装置の乗組員になろうとする。だがかつて心身を許しあった神学者パーマー(マシュー・マコノヒー)の彼女への思いやドラムリンの策略が立ちはだかり…この後、物語は二転三転、果たしてエリーの念願はどのようなカタチになるのか。

 科学、宗教、数字、言葉、愛、そして政治が織り成すこの物語は重層的だ。実証主義をとり「信仰」を「思い込みでは」というエリーだが、彼女が地球外生命体探査に打ち込む根本の動機は幼くして失った父母への強い思いだ。彼女を非科学的と切って捨てる上司は状況によって言質を狡知に変え、当初上手くいくかに見えるが彼には相応の結末が待っている。慨して見れば科学vs宗教等といった対立図も描けるが、本質はそうした安易な色分けではなく、人間ひいてはこの社会や宇宙がどれだけ大きく多様であり、科学であれ宗教であれ、個々人が信念として何かに生きることの尊さが目ざましく描かれている。

 エリーがアレシボ天文台でパーマーに自分が宇宙に惹かれたきっかけとして、金星は“見た目”の美しさでウェヌスの名を冠しているが実際には酸の雨が降る高熱で苛酷な環境なのだと知ったとき興味を持ったと話す。この逸話はこの作品全体を表しているように思える。確かに大きな括りで言えばこの作品はSFだろう。しかし本来のSFがそうであるように“絵空事”を描くことで現実を浮かび上がらせ、そこから我々の来し方行く末を照らし出す、切り拓く一助となる。エリーが信じたのも、そういうことだ。皆さんもぜひ一見し、自分だけの宝石を見つけ出して欲しい。



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November 07, 2006

美しいって、何??  『雲のむこう、約束の場所』


 新海誠作品を初めて目にしたのは下北沢のトリウッドという数十人も入れば満員の小さい映画館で、実際、なんと観客僕一人。観たのは『ほしのこえ』という新海氏がMacで一人で作った、映像がスゴイという触れ込みだった。で、観ると映像はキレイで「これを一人で作った」というのもピンと来ない。が、その閉塞的な内容に気持ちが悪くなってしまい、新作が出ても観る気にはなれなかったのです。
 
 しかし確かな目をもった方のお薦めもあり(脚本ではなく映像に関して)先日、『雲のむこう、約束の場所』を観てみました。同作は多くのスタッフ、主役に俳優を起用した声、そして公開はシネマライズにて。結構上映期間も長かったと記憶しており、商業的にも当たったらしく、名実ともにメジャー路線に打って出た第一作でありましょう。

 内容は、北海道がユニオンという国に占領され、そこに立つ数千メートルのタワー(もちろん日本はアメリカに与する)。そこを目指して自作飛行機(とてもメカニック)をつくり、下級生女子にをそこに連れて行くと約束をする青森の男子高校生二人。その三人に大雑把な政治劇や下級生女子が鍵となる異相空間の存在があったり、前作『ほしのこえ』と同様の非常に軍事SF的要素と市井の女の子が直結した世界が展開されるのです。

 映像はとにかく光に溢れ、夕景は素晴らしく、青空は済み、青森の素朴と東京の雑多が美しく表現されています。実に美しい。この世のものとは思えないくらい美しい。そう、安倍晋三の“美しい”に通じるリアリティがない美しさ。例えば、錆付いた標識はリアルなのに、ホコリだらけであろうオンボロ電車の床がぴっかぴか。かつ、物語自体も“戦隊モノ”同様、日本や世界を動かす一大事が本当に限られた人間の関与と安易さによって進行してしまう。この作品を観て、オタクというものがいかに本質的な政治性、整合性のないご都合主義で世界をみて満足し、そしてそれに共感する若者が多いかを思い知ったのでした。問題作です。



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November 03, 2006

脳に快楽を 「ウィーン美術アカデミー名品展」


 きのう、損保ジャパン東郷青児美術館で開催中の
 「ウィーン美術アカデミー名品展」へ足を運びました。

 まず会場に入るとファンダイクによる15歳当時のポルトレ。
 見返り少年の輝く若さから、この展覧会は始まります。

 修復でもされているのか1531年のクラナハ(父)作、
 『不釣合いなカップル』は色の鮮やかに目を見張ります。
 描かれる老人と若い女性の二人組みは、
 “老いは愚行からも身を守らない”の教訓とのこと。
 確かに、年の差カップルというよりも、男女を問わず、
 老人が若い子に猥褻行為という事件が多いので現代的?
 一方で1515年の『聖家族』で幼子イエスが、不自然に露出された
 マリアの片乳を触っている様子は、まさに宗教画を装った、
 違う楽しみを描いたものに他ならないでしょう。
 
 以後、黒を背景にあでやかな人物画、静物画が続きます。
 『聖ドロテア』の深く抑えたボルドーと緑のコントラスト、
 きらめくやや赤い長髪、艶然たる笑みは見事。
 ピーテル・ブール、1658年『地球儀とオウムのいる風景』は
 豪奢な絨毯、リュートやタンバリンなどの楽器、金細工の皿、
 中国製と思われる陶器などなど、異国趣味と権勢を示す
 おもしろい一枚で、まさにバロック〜古典主義的な主題。
 つづくヤン・フェイトの静物画は、格別。
 描写力、色彩の鮮やかさはもちろん、獲物として狩られた
 動物たちの“死体”でさえ美しい。ジビエ料理の楽しみの
 予感さえ伝えてくるのです。

 ほか、ロイスダール、グアルディ、クールベ、ルスなど
 期待以上の「名品」が並び、愉しむことが出来ました。
 とりわけ、僕のヴェネツィアのイメージを形作ってくれた
 グアルディの金色に輝く海のきらめきが反射する水路の街、
 クリムトが活躍したあの色と共存しつつ、もはや単なる
 写実を超えた鮮烈なルスの画・・・

 脳に直接刺激を与えたい方、ぜひ一見されてはいかがでしょう。

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November 02, 2006

ブーツで跳び越えるのは  『キンキーブーツ』



 本当は『フラガール』に続いて“実話モノ”ばかり観るのはよくないと思います。なにせ“感動的”な結末は必ずといっていいほど待っているわけですから。しかしだからこそ、その来るべき結末へと物語をどう構成し、観客の心をどう動かすか。分かっていてもおもしろい。この結構難しいハードルを、その立派なヒールで跳び越えたのが『キンキー・ブーツ』(ジュリアン・ジャロルド監督)でした。
 
 まずオープニングが冴えている。物語の展開を予見させ、心を弾ませてくれる。舞台はロンドン北の田舎町。丁寧な伝統工法が売りの靴工場を、父の急死で引き継いだチャーリー・プライス(ジョエル・エドガートン)は会社存続に悩む中、からかわれていた人気ドラァーグ・クィーンのローラ(キウェテル・イジョフォー)を女性だと思い助け、ロンドンで出会う。ローラとの出会いによって紳士靴製造から“男性”でも履けるブーツやヒール製造へと転換・成功するまでを、従業員の戸惑い婚約者からの侮蔑を受け、挫けながらもすべてをかける彼を中心として緩急自在にテンポよく描かれる。

 『ブラス』に代表される“英国労働者映画”に新たな佳作が生まれた。さすがロバート・オーウェンを生んだ国、経営者と工場労働者が試行錯誤しながら一致団結する過程が丁寧に描かれる。さらに『リトル・ダンサー』で大切な要素ともなっている“マイノリティーとして生きる”(生き方それ自体、性的志向等)ことへの共感が温かく伝わってくる。無骨な職人がローラをバカにし、ある出来事を経て和解、最終的に筋全体を支える存在になるのはベタだが、説得力がある。思考の転換は誰だって難しいから。

 チャーリーは最初にローラという人物に会社再生を賭けキンキー・ブーツに目をつけておきながら、最後まで一人“偏見”から逃れられない。頭ではいち早く理解を示しても、根源的なところで葛藤を経ていないために偏見を克服できていないことが、婚約者に“男として”裏切られることで顕在化する。そんな彼からの「新たなメッセージ」を聞いたとき、来し方を回想していたローラの笑顔は格別に輝く。“実話”映画は、こうして普遍性を獲得し次のステージへと上る。これは稀有な例、ましてや絵空事じゃない、自分たち、そしてこの社会の可能性の在り方として。 




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November 01, 2006

せっかく世界史“履修”するなら



 高校での必修科目漏れ調査が一段落したようですね。

 実は、ちょっとほっとしています。
 もしや母校も、と思われた方も多いのではなかったでしょうか。
 なにせ全国で未履修対象生徒数がおよそ8万人。
 僕自身、多くの未履修科目となっている世界史も日本史も
 しっかり楽しませていただいてよかったです。

 東京の場合、青学や海城と昔からの名門校が必修漏れが
 あったようですが(兵庫・灘もだってさ)、
 僕の出身・埼玉県内の私立では傾向は顕著で、
 いわゆるいけいけどんどん新興系私立が多いです。
 とりわけ多く報道された「西武学園文理」は僕が高校生の
 ときから急進していたのですが、
 その実態はオーストラリア旅行で「世界史B」履修と厚顔な
 申請をしていたようです。
 当時、西武文理と母校は“競る関係”といっても過言ではなく、
 今は西武文理にリードされているようですが、
 これであちらの教師陣がどういう心構えで「教育」に当たり、
 “成果”を出してきたか、白日の下にさらされました。
 厳しい競争の中にあって“何でもあり”では仕方ないですよね。

 日栄から山ほど献金を受けていたであろう、伊吹文科大臣に
 言う資格はないと思いますが、正直者がバカをみる社会、
 であってはならず、ぜひ今回問題とされている優秀な高校生の
 諸君はルールとして決まっている学ぶべきものを学び、
 それも冬休みで消化などという姑息なことはせず、
 しっかり受験前に授業を受けてもらいたいです。

 
 ま、いいですよ。こんなことは杓子定規だと退けられるだけ。
 しかし、本当に問題なのは、教育の場でここまで歴史の授業が
 ないがしろにされてきたということです。
 それも、層からいって歴史を学び、少なくとも知識として
 身につけ考えるべき子どもたちが歴史を学んでいなかった
 という惨憺たる事実。学校教育がすべてではありませんが、
 大事な機会が失われたとことは間違いありません。
 彼らが基本を欠いた歴史認識をもって体制翼賛化することに
 躊躇しない、という結果が生まれるのでしょうか。

 どうせ“受験では関係ない”科目である、補修授業で学ぶ
 世界史や日本史。
 だからこそ、雑な知識ではない俯瞰的な授業が成されることが
 期待されます。
 生徒が“ズルをしなくて良かった”と心から思える授業を。


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