October 2006

October 31, 2006

麻薬も勇気も不安も、詰め込み 『そして、ひと粒のひかり』




 人は、生まれた境遇で生きざるを得ない。貧富の差はさまざまあれど悩みは各々にあり、富者だからといって悩みがないと言えないことは指摘するまでもないだろう。しかし、この作品のヒロイン、マリアは17歳にして一家を支えるために働かなければならない。『そして、ひと粒のひかり』(ジョシュア・マーストン監督)は、そんな苛酷さを背景とする。

 マリアは、バラ栽培発送所で働くものの上司とそりが合わず辞めてしまう。また付き合い、その男との子どもまで宿した相手に愛想を尽かして別れる。母親や姉からは金を入れろの矢の催促…そんな中、たまたま知り合った男の紹介で彼女は麻薬の体内運び屋となり、ニューヨークへと旅立つ。

 彼女と似たような境遇をもつ女性はコロンビアには溢れているのだろう。運び屋の先輩ルーシーと知り合い、薬の飲み方を教わり心を通わせたからこそ、彼女の哀れな末路を見届けるのはどれほど重い事実だったか。それは彼女自身の運命を見るようではなかったか。ルーシーの姉の涙は、彼女に決断を促す。

 美しい原題『MARIA FULL OF GRACE』は、麻薬の袋をその胃に詰め込んだ彼女の反語だろう。彼女には自ら道を切り拓く勇気、宿した子への愛が満ちていた。かつ、それと同じだけの不安も。この強さを得たのは境遇の成せる技なのか、彼女の質なのかは分からないが、こうした生き方をせざるを得ず、命までも落とす者がいる現実に立ち帰ることが不可欠だ。彼女の意思を観る者が引き継ぎ、改めて自らの足元と頭上を見つめ直すことを。




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October 27, 2006

じっくり。かっこよく。 『リンダ リンダ リンダ』

 
 シネセゾン渋谷の看板を見上げた公開当時、『子猫をお願い』『吠える犬は噛まない』の韓国女優ペ・ドゥナ主演?と驚いた『リンダ リンダ リンダ』。評判高い山下敦弘監督の作品として初めてDVDで鑑賞した。

 舞台は群馬県の高校学園祭。どうやらオリジナル曲を練習したきてベースの女子(湯川潮音)が指を骨折したのを契機に、バンド内ですれ違いがあったらしい。それでも恵(香椎由宇)、響子(前田亜季)、望(関根史織)の3人は留学生のソン(ペ・ドゥナ)をボーカルに加えてブルーハーツを演奏することに。果たして彼女たちの演奏はうまくいくのか?

 何気なく、ほほえましい彼女たちのやりとり、恋模様などを含めて濃密な数日間が過ぎていく。やすらぐ田園を背景に、家族とともにある彼女たちの生活に、観る者は安心感を覚え、殊に強調されなくとも「理想的な家族の在りよう」までも見出してしまいそうだ。だから、本来“異”であるソンが仲間に自然と溶け込み、頑なになりがちな恵の緩衝材になっているのがより効果的になっている。粘着質でない、少し大人の女の友情。登場する男たちが皆、わざと純情純朴なのか、高校男子なんて本当にこんなものだったか。

 バンドの女性陣に加えそんな男子陣は松山ケンイチ、小出恵介、小林且弥、近藤公園など充実し、加えてりりぃ、ピエール滝、甲本雅裕ら個性派が脇をしっかり固める。エンディング、外は雨が降り、人気のないがらんとした教室や玄関に響くブルーハーツ。学園祭が非日常であることを、派手な事件なくしてうまく演出し、かつ、“祭りの後”への行間を残す。アメリカのスクールもので観る病的かませがき集団とは異なる世界が、ここには穏やかに流れている。爽やかで味わいある作品だった。


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October 24, 2006

拍手はナミダ付き 『フラガール』

 
 これから拙いごたくをならべるわけだけれど、まずこの作品の真髄を言うとするならば、歌舞伎町の、ごく普通の映画館で終映後、劇場が自然と沸き起こった拍手につつまれたという事実を報告するだけで、本当は事足りているのかも知れない。映画祭以外でこんな経験はしたことがないから。実話を基とする李相日監督『フラガール』はそんな傑作だった。

 李監督の作品に初めて出会ったのはおよそ6年前、東中野の小さい映画館。『青〜chong〜』という作品(ぴあフィルムフェスティバル・グランプリ)で、朝鮮高級学校を舞台にした青春映画。自分より1歳年上の若き才能に舌を巻き、これはと感じたのをよく覚えている。その後『ボーダーライン』という硬派な力作をへてメジャー路線『69』『スクラップヘブン』(両作未見)に踏み込み、今作に至っている。

 舞台は閉山間近の現福島県いわき市の炭鉱町。会社は雇用対策として常磐ハワイアンセンター開設を目指すが労働者(豊川悦司ほか)の同意はなかなか得られない。そんな中、同センターで踊るためのフラガールが募集され、東京からやってきたダンサー(松雪泰子)に最初は数少ない生徒たち(蒼井優ほか)が懸命にダンスを覚えていく。母(富司純子)との反発と和解。先生の事情。友との別れ…時代の変革の中で生きる痛みや喜びが正攻法(間違いなくこの映画は正当な女性賛歌)で描かれる故に普遍性を持ち、現代と重なる。

 少年少女が懸命に成長する姿はケレン味なく美しい。それが宮崎アニメになるとファンタジーのオブラートに包まれるが、この作品や今も続映中のアニメ『時をかける少女』では真摯に描かれ、多くの人が自分の中に彼らを見出した。とりわけ今作、最終場をみるにつけ涙は悲しいから流すのみあらずと実感し、素直に心動かすことの喜びを観客は腑に落として、拍手という表現に託したのだと思う。 


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October 23, 2006

殺人犯に、自分をみた男  『カポーティ』

 

 ベネット・ミラー監督、フィリップ・シーモア・ホフマン主演の『カポーティ』を観た。ホフマンはアカデミー主演男優賞を受賞し、同作は作品・監督・助演女優・脚色賞においても同賞にノミネートされた。やはりはまず、この作品がホフマンの演技に大きく支えられていることを特記しなければならない。実際のトルーマン・カポーティを私は知らないが、おそらくどういった特徴を彼が持っていたかを推して量れる、と自然に思えるくらい。

 1959年11月のとある朝、ニューヨーク。既に流行作家として名声を得ていたカポーティは、ある新聞記事に釘付けとなる。それはカンザス州の田舎で発生した一家4人惨殺事件の一報だった。彼は幼なじみで作家のハーバー・リー(キャサリン・キーナー)と共に現地に向かい調査を開始、そして滞在中に逮捕された2人の殺人犯のうちペリー・スミス(クリフトン・コリンズJr.)の生い立ちや心情を聴くうち、「取材」の範疇を越えていく…

 偶然、インスピレーションを得たからこそ彼はこの「よくある事件」に引き寄せられた。ふだん社交界で彼は洒脱な会話で話題の中心となり、才知溢れ、自信に満ちているがごとく振舞う。実際才能があったことは確かであろうが、母親に捨てられ、子どもの頃から様々な意味で自らをマイノリティとして自覚し生きてきた彼自身の芯の部分が殺人犯スミスの核と共鳴し、新たな米文学を開拓する『冷血』として結実する。運命だったかのように。

 しかし彼は『冷血』以後作品を発表しなかったという。作家としての本能がこの事件に彼を巻き込み、結局、彼は最期まで抜け出せなくなってしまったのだろう。それは、分身的な存在と感じるまでになったスミスを「小説の種」として利用する良心の呵責によって決定的になる。己が“自分”を裏切る後ろめたさ。我はユダか、と。内省する者でなければモノは書けない。が、それが果てしないものになるほどに社会の闇は深く、運命は時に駆動する。


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October 15, 2006

カタチなき、かたちを観る  宇宙堂公演『夢ノかたち/第二部 緑の指』


 
 渡辺えり子さん作・演出・出演、宇宙堂公演
 『夢ノかたち/第二部 緑の指』を観てきました。
 少し前『ウチくる!?スペシャル』にえり子さんが出演されていて、
 公演数日前なのに台本が書き上げられていない、と
 言われていたのですが、どうなったかなぁ〜と心配半分で。
 席は舞台に対して最前列。観劇生活2度目のかぶりつき。

 物語は前作、『夢ノかたち/第一部 私の船』と続いて
 いますが、そもそも前作自体が複雑錯綜した物語なので
 前作を観ていないとわからないけれど、観ているからといって
 分かり易いかといえばそうともいえないのですけれど。

 物語の渦の中心には、亡き母のためにウエディングドレスを
 作り続ける福子。彼女の妄想の産物たる縞男。
 さらに戦争で夫や自らの左手を失った、あるいは現実と
 夢の区別ない精神を病んだ男女…
 今回、そうした枠とは別に台本がなかなか書けない女性の
 脚本家が登場し、伏線となるも途中からそれも掻き消えて。

 そう。この舞台で明確な筋を読み解こうとすること自体、
 意味がありません。なにせ「夢ノかたち」なのですから、
 ちゃんとした輪郭などあるはずがないのです。
 福子は言います。母の服は作れるが「自分の服はかたちに
 ならない。だから作らないんだ。どれだけそれが欲しかった
 しれないけれど」と。
 一番望むモノほど、その姿は漠たるものになるのです。

 襲いかかり、その腕を払うことの出来ない苦しい過去を
 いかに受け入れ、克服し、新たな生の糧となりうる夢を
 みることが出来るのか。ほんとんど、あがきの叫び。
 そこには荒廃し見せ掛けの政治への批判が込められつつも、
 生への強烈な肯定のメッセージなのです。
 ゆめのカタチは人それぞれ。
 だからこの物語を読み解くのも人それぞれ。


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October 14, 2006

女性を描き、社会を書く女  二兎社公演『書く女』


 永井愛、作・演出『書く女』(二兎社公演)を鑑賞。
 永井作品は『萩家の三姉妹』以来、去年は学校での日の丸
 君が代強制を題材にした『歌わせたい男たち』が朝日舞台
 芸術賞を受賞するなど、話題作を観逃し後悔していたのです。
 笑いと風刺的鮮烈が際立つ永井作品、果たして今作は、と。
 お恥ずかしながら今回ヒロインとなる樋口一葉への知識は
 あれど、肝心な作品は『たけくらべ』の一部を読んだのみ。
 それで楽しめるのかと一抹の不安はあったものの、結果、
 あすにでも彼女の作品を読み始めたい気分になっています。
 寺島しのぶ演じる一葉の、芯の強さを早く文体から感じたい。

 物語は、彼女が歌塾の同級生が小説を書き、話題になって
 いるのに触発されて我をもと朝日新聞の連載小説を書くも
 文壇では三流扱いをされている半井桃水(筒井道隆)のもと
 へ弟子入りを頼むシーンから始まります。彼女はその後、
 彼への「厭う恋」、“すべてを捨て去って捨て去って尚残る
 思いの果て”を見届けるため、小説を書くことになるのです。

 そしてもう一つ。この物語の根幹に「貧窮」があります。
 それは女性蔑視や日清日露戦争という当時の時代背景と
 すべてつながり、女が筆で食べていくことの労苦が、刻銘
 かつユーモラスに描かれいます。とりわけ朝鮮半島を巡る
 日中露、そして欧米列強の分捕り合戦への言及、戦争が近づく
 につれての社会全体が好戦的翼賛化する批判は、まさに今の
 日本の映し鏡のよう。なんとか商売で糊口をしのごうと
 彼女は吉原近くに住み、遊女たちの生活に触れる(手紙代筆も)。
 そこで豪遊する男たちへの厳しい眼差しで「格差社会」が
 浮かび上がり、ここでも現代の社会構造変化(復古化か?)
 を照らしてしまうのです。

 しかし、やはり見所は軽妙なやりとりと寺島しのぶ演じる
 一葉の在り方です。学歴もなく、家族を養うため、食べる
 ために懸命に「書く」彼女のしぶとさ。かつ桃水への遂げ
 られない恋にもだえる繊細さ。この多面体な一葉を寺島は
 見事に演じ、終盤の評論家と堂々とする対峙するすごみは
 彼女が目論んだ、時代を突破する信念の顕現となるのです。
 楽しく、力強くぐいぐいひっぱる作品。観応え、十二分。
 

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October 09, 2006

爆発は花台のみにあらず


 急遽出勤が決まったきょう。
 やるぞやるぞと言われていたセレモニーが、
 北の将軍様によって執り行われました。
 普通だったら穏やかな祭日出勤は修羅場と化し、
 混乱を窮めたのです。
 正直、今の職場に2年いて一番の大変さでした。
 やはりただでは帰してくれなかったということでしょうか。

 これから携わろうとしている仕事は、
 時代に敏感であらねばなりません。
 そして今の仕事も、時代の刹那刹那の真っ只中で
 動くものです。
 が、しかし。
 その基底に置いて全く異なっているのではなかろうか。
 もしも今の感覚のままネガティブ感覚(元来の性質もある)
 でいってしまったならろくなことがない、と。

 もっとポジティブに世の中がみたいです。
 どなたか、こつを教えてください。


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October 06, 2006

現代の神話 人を結ぶ絆 ナイトシャマラン監督『レディ・イン・ザ・ウォーター』


 M.ナイトシャマラン監督『レディ・イン・ザ・ウォーター』を観た。同監督作品は話題を呼んだ『シックス・センス』(ひどい邦題!)以来、劇場かDVDですべて観ていることになる。そして今作が、私にとっては新鮮であり、一番おもしろいのではないかと思える。

 同監督作品の特徴として、常に何か見えない存在が我々の世界に同居しており(それが同じ部屋の中であるか宇宙までをも含むか)、かつ運命的な力学によって人が左右されるという思想に貫かれている。それはこの作品でも同じなのだが、よりそれが神秘的であり、「神話」のエピソードという体裁のうちに展開するため、世界観を理解しやすくなっている。

 フィラデルフィアのプールを備えた共同住宅。管理人であるクリーブランドはある夜、プールで泳ぐ一人の女性を見つける。彼は彼女がフツウでないことを直感的に悟り、彼女がナーフ、水の精だと聞き、信じる。それはそこに住む韓国人の母娘から聞く口承神話に符合し、彼女を会うべくして会う存在に巡り合わせ、無事に彼女の世界へと還そうと奔走し、周囲も導かれるように彼の思いに同調していく。しかしそこには大きな障害があり、帰還によってもたらされる「世界の調和の到来」へは困難を極めるのだった…

『サイン』『ヴィレッジ』において同監督は、人間的な禍福あざなえるつながりの濃い旧来的アメリカ農村を舞台に物語を展開させた。今回、まさに現代人としての村的な、同じ共同体に住むという連帯感で結ばれた人たちを駆使し、かつ次第に彼らをつないでいくのが「神話」(俄には信じ難い)であり、何らかの「大いなる存在」であることはそれまでの作品と共通している。ただ明確に異なるのは、そこに住まう人々が今のアメリカを象徴するかのように様々な人種で構成されていることだろう。

 クリーブランドは家族にまつわる悲しい過去を持ち言語障害をきたし、それゆえ彼がナーフには必要だった。これは『ヴィレッジ』の主人公の背景と相似形を成し、彼らの心を震えもさせ、支えもする中核だ。ある瞬間、「大いなる存在」が彼らにだぶる時、物語は佳境を迎えるだろう。しかし『ヴィレッジ』ではそれがキリスト教という限られた信仰に裏打ちされる結果になるのに対し、今作においては国も人種も越えた「神話」によって共有され、そのカタチは神秘的であるがためにかえって客観性、整合性を持つことになる。それまでどこか抹香臭かった同監督作品が、新たな普遍的世界へと“飛翔”した瞬間を目の当たりにするとき、観る者は己が心の奥にほとばしる温かさを感じるのかもしれない。


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October 01, 2006

アンサンブルの妙



 カレーは、いいですね。
 インドカレーが一番好きですが、家で自由に具を入れて
 煮込むのは楽しいです。
 ゴーヤ、トマト、ナス、エリンギ、ひよこ豆、タマネギ、
 ズッキーニ、パプリカ、マッシュルームなどなど、
 野菜をいろいろ組み合わせて、辛めに味を調節して
 出来上がったのを食べるのはおいしい。いろんな野菜が
 合わさって、複雑な味が生まれてくれます。

 アンサンブルといえば、最近はまっている演奏があります。
 バッハの、チェンバロ独奏用に書かれたゴールトベルク変奏曲を、
 その名もゴールトベルク・トリオの三重奏団が編曲して、
 ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロで奏でた演奏を聴くのですが、
 原曲以上にチャーミングで、素敵な演奏なのです。
 チェンバロでは出ない伸びやかな響き、弓演奏とピチカートを
 織り込んだ多彩な構成。しばしばバッハは編曲されていますが
 (例えば今のシャープ、第2亀山工場のCM)、これほどに
 それが功を奏して原曲の魅力を増している演奏を初めて聴く
 ことができたようです。ジャズ風にしようと、ダンス系に
 しようと、こうして正統に編曲しようと、原曲が素晴らしければ
 いかようにも耐えられる証左ですね。

 料理にしろ、音楽にしろ、その快楽を欲求にそいながら
 工夫をしてそれなりに、自分なりに楽しめるのは、
 なかなかない生きる贅沢だと思います。


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