June 2006

June 30, 2006

兄弟の物語 『ゆれる』試写



 昨晩、西川美和監督(脚本も)の新作『ゆれる』
 試写会に行ってきました。会場は二度目のイイノホール。
 イイノホールといば落語の収録場所として有名でしょうか。

 同作品は今年のカンヌ映画祭監督週間に正式出品され、
 評価を受けたという記事を読んでいて、申し込みましたが、
 あの『蛇イチゴ』の監督(是枝監督の秘蔵っ子)の作品という
 ことでも期待して。『蛇イチゴ』観て、宮迫さんてしっかり
 俳優できるのだと思えたし、物語としておもしろかった。

 出演はオダギリジョー、香川照之、伊武雅刀、新井浩文、
 真木よう子、木村祐一、ピエール瀧、田口トモロヲ、  
 蟹江敬三 ほか。製作が重延浩、企画に是枝裕和ほかで、
 まさに「テレビマンユニオン」の作品なのです。
 会場がこんでいたのはオダジョー効果なのかどうか不明。

 物語は東京で写真家として活躍しているらしい早川猛(オダギリ)
 が母の法事(甲府近辺らしい)へ車(フォードの古いヤツ)で
 向かうところから始まります。アシスタントもセックス相手も
 名声も手に入れて絶頂という感じです。
 一方、着いた実家は葬式後で、怒る父(伊武)を兄・稔(香川)が
 懸命になだめる。父・兄は実家が経営するガソリンスタンドを
 守っている。そして、そのガソリンスタンドには洋平(新井)と
 智恵子(真木)が勤務し、智恵子は稔の世話になっているが、
 どうやら猛の元彼女らしい。早速その晩、猛は稔が智恵子を
 好きだと知りつつセックスし、稔にウソをつく。
 翌日、昔家族で行った渓谷へと稔・猛そして智恵子は向かい、
 その事件は起きる。智恵子はつり橋から転落死。稔はその時
 彼女とつり橋上で何をしていたのか、そして先につり橋を渡って
 いた猛はその光景を見ていたのか。

 後半、舞台は法廷に移り弁護士である父の兄(蟹江)も
 加わり(裁判長に田口、警官に瀧、検事に木村)、そこから
 この物語の本質、兄弟の物語、という様相が浮かび上がるのです。
 親世代は兄(東京で弁護士)弟(山梨で家業)、子ども世代も
 兄(山梨で家業)弟(東京でフォトグラファー)という対比が
 浮かび上がり、そこに兄弟の相克、そして兄の法廷での発言が、
 この作品の題名の通り、さながらゆれるつり橋がそのまま展開を
 支配しているかのように、登場人物のゆれる心が見えてくるのです。

 僕は一人っ子で、兄弟というものを知りません。
 もしも僕が生まれる前に亡くなった兄との生活があったなら、
 今の僕はなかったでしょうし、もっとまともな人間になりえて
 いたかもとあらぬ期待を抱きます。しかしこの旧約聖書の時代
 から連綿と続く兄弟の葛藤は想像を超えるでしょう。
 ただこの物語で稔は徹頭徹尾、兄、でした。

 西川監督は親族の「死」を巡って、そして企画の是枝監督の
 「犯罪者と非犯罪者の境界」をこれまでの作品にもそのテーマ
 は埋め込まれていましたが、この『ゆれる』はその両方を包含し、
 明確に描いていくのです。最初、その分かり易い兄弟の職業分担
 が気になったのですが(例えば実家の兄が県会議員で、東京に
 出た弟が全く売れない写真家というのもあるでしょう)、
 しかし、目指すところを定めればそうしたことは些事に過ぎないと
 僕は考えます。

 涙はないです。
 そして、甘ったるい“感動”もありません。
 しかしあの香川の見事な演技、新井のえぐる目が示すとおり、
 この物語の生易しくないテーマは、世界の一部を見ることを意味
 するのです。


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June 29, 2006

不条理とリアル


 きのう実家で日テレの光クラブ事件を扱ったドラマを
 見ながら、きょうの株主総会はどうなるかと思っていました。
 会社再建を訴える山崎が、サクラを使って茶番劇を演じて
 なんとか乗り切ったものの、債権者集会は騒然としてました。
 
 生まれて初めて株主総会なるものに出席しました。
 他のところはネットで済ませましたが、きょうわざわざ出向いて
 出席したのは去年末、その会社が業績を下方修正し今や株価は
 僕が買った価格に比べて半分となってしまったからです。
 富裕層にとっては何でもないことかもしれませんが、80万円が
 40万円になるのは僕にとってかなり厳しい。売る売らないは
 別にしていかなる取り組みをするのか、直に聴いてみたかった。

 結果的に、そんな会社ですから総会は大揺れかと思ったものの
 拍子抜けでした。
 会場はテレ東近くの大きなホテルで大きなホール。
 なのに席はかなり空があって満席とはならなかった上、社長の
 説明の後の質疑応答もたったの一人。
 ただ、その内容が気になる。社長が下方修正発表前に500株を
 売ったのは事実かというもので、社長は事実を認めたものの
 インサイダー取引ではないと明言しましたが、が、正直「?」。
 ただ、しかし問題はこれからです。説明通りの経営計画が
 実行され、どこかの証券会社もV字回復の可能性あり、と
 言ってましたら期待し待つしかないでしょう。

 始めて半年もたっていませんが、株はいろいろです。
 今はやばい日本航空でも去年はもうけさせてもらったし、
 ワコムはライブドアショックを好機にできたかと思えば、
 野村證券のアナリストさんの言葉(非常に当たっている)を
 うまく生かすことが出来ず、今はマイナス生活です。
 もうだめだだめだと思っていて、ぎりぎり損しないで売れた
 と思ったら、数日後に好業績が発表されてもうけ損なったり。
 そもそも、きょうの会社もチャートとちょっとした知識で
 安易に買ったのがこんな長いお付き合いの元なのです。
 つくづく投資するなら自分が好きで長くも持ちたい会社の株を
 買いたいなぁ(ニコン、ナナオ、帝人、伊藤忠、東急とか)。
 ちなみに僕の場合、野村證券なのでシステム上デイトレは無理。
 でも株をやって何が良かったかと言えば、社会に対する
 視野が確実に広がったことです。
 ユーロも金も楽しいけれど、とても不条理かつリアルな株は
 マニュアル本とかは読まず、緩やかに付き合っていこうと思います。



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June 27, 2006

人生、2,3日じゃ振り返れません 『ブロークン・フラワーズ』



 きのうは、グラフィックデザイナー、キュレーターである
 二人のおねえ様にお供し、映画、食事、そして友人のDJが
 まわす僕にとって人生3度目のclub体験でした。  

 まずは渋谷で『ブロークン・フラワーズ』を鑑賞。
 監督&脚本:ジム・ジャームッシュ 
 出演:ビル・マーレイ/ジェフリー・ライト/
    ジェシカ・ラング/シャローン・ストーン/
    ティルダ・スウィントン/ランセス・コンロイ

 ピンクの封筒にピンクの便箋、赤い文字で書かれた手紙が、
 コンピュータ事業で成功し、半ば隠遁生活を送っている
 呆けたようなドン・ジョンストン(マーレイ)に届きます。
 ちょうどその日、それまで同居していた女性が彼に愛想を
 尽かして出て行くところ。彼女は「年老いたドン・ファン
 にはもう付き合えない」と言い残し去っていくのです。
 更にその手紙には差出人と住所の記載がなく、あなたとの間に
 息子ができ今や19歳。あなたを捜して来るかもしれない、と
 心当たりがあるようなないような内容だったのです。
 彼は隣家で、彼とは対照的に子沢山一家で幸福そうに暮らす
 友人ウィンストン(ライト)に相談すると、ウィンストンは
 使い始めたばかりのネットを駆使し、彼に作らせた過去の女
 リストから、彼女たちを訪ね歩く旅を提案、レンタカーや
 ホテルのお膳立て、さらには地図まで用意して渋る彼を送り
 出すのでした。そしてドンは、旅先で過去を巡る珍妙な旅を
 始めるのです…

 とにかく笑いのツボがひしめいていました。
 ドン自身のやる気のない様子と対照的な隣人のおせっかいぶり、
 彼が巡る女性たちは名女優ばかりで、そこには破天荒ぶりあり
 (彼の前に平気で裸で出てくる娘を見れば分かる)、抑圧あり
 (現在の夫と、どう見ても愛し合っていない)、転向あり
 (今は女性助手とそういう関係)、死あり(墓の下)。
 道すがらバスの中で聴く女の子二人組みの会話に爆笑し、
 猫の名演技(?)にうなり、立ち寄ったお花屋さんの女性の
 素敵さに目を見張り、使われる音楽や見ているテレビの映像が
 あざといまでに彼の気分にあっている(彼が子どもなど覚えが
 ないという場面でフォーレの『レクイエム』から
 「ピエ・イエズス」!)。またモーツァルトのオペラ
 『ドン・ジョバンニ』で過去関係をもった女性のカタログが
 アリアで歌われるのを彼の女遍歴リスト作りで思い出しました。

 結局彼は息子も、その母が誰なのかも探りえません。
 ラストシーンのドンの表情には、半ば悔悟と、失望と、
 諦めと、そして微かな希望が入り混じっていました。
 人生の一大事が、数日の旅行で解決するわけもなくで。
 人生は面白うて、やがて悲しき…

 
 その後、キュレーターさんのお友だちが経営する
 渋谷・神山町に ある「アダン」というお店に。
 ギャラリィも兼ねる和食中心の素敵な空間のお店でした。
 水ナス、明石だこ、アスパラ、豚、カレイなどなど、
 季節を感じさせるお料理を堪能させていただきました。

 



 そして午前0時半。一路、西麻布のクラブへと向かったのです。
 久々に美大を卒業したばかりのDJくんの音を体感するために。
 会場はそれほどに混雑しておらず、たばこの煙もきつくなく、
 で環境は良、客層も学生さんたちの集まりのようで問題なし。
 DJブースは森の一隅といった感じでメルヘン風ですが、
 そこから繰り出される音楽は、快楽そのものでした。
 僕の耳には冴え渡ったチェンバロのアルペジオや、
 ソプラノのコロラトゥーラが重なって聴こえ、瞬間瞬間を
 埋めていく音の心地よさに身を委ねMasterたるDJに心置きなく、
 踊らされました。楽しかったですな。

 にしても、きょうのあの時間はあのクラブと目と鼻の先で
 僕は深夜働いているわけです。世の中って、おもしろい。




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June 26, 2006

幻の天保丼

 
 お昼ジムの後ご飯を食べようと、そばにあるお店へ。
 このお店のご主人、僕よりもきつい天然パーマと眼鏡が
 特徴的なのですが滅多に姿を目にしません。
 さて、この間から張り紙で気になっていた「近日発売 天保丼」を
 頼もうとしたのですが、まだ発売になっていないので
 少し残念。ただカロリーが高そうだったのでまいいか、と。
 テレビではどこかの国の藪譲司大統領が、9月に犬を
 飼いかえるかもしれないとニュースを報じていました。
 今飼っているのは“プティット・フォンテーヌ”くんという
 老犬で、犬種は分かりませんがたてがみ風の銀髪が特徴。
 そして次の飼い犬筆頭候補は“セイント”くんというらしく、
 ひょろひょろで頬の垂れた、あんまりかわいくない犬でした。
 料理が出てきて食べていると、お隣のパチンコ屋のご主人が
 やってきて、その店の子どもたちにお菓子をたくさん置いて
 いきました。噂によると、この店のサッカーを見るために
 入ったNHKの受信料までお隣が代替してあげているとの
 ことで、昔はけんかしをしていたのに仲直りしたなぁ、
 感慨深いものがあります。
 ただそれより何より、僕はカツ丼を頼んだのですが、
 肉がどうも豚ではなく、何か違うものようなのです!
 店の奥から、チューチューとねずみの鳴き声が盛んに
 聴こえてくるのは空耳だったことを信じたい。というのも、
 以前ペニスを切断されたねずみが大量に捨てられていた、
 という広報を目にしていたのですが最近はなかったので…


 ◆
 ◆
 ◇

 以上、事実ネタを織り込んではいますが当然のことながら
 フィクションです。
 テポドン、テポドン、と騒いでいた先週がウソのようです。
 一体なんだったのか。
 そんなことを考えていたら、思いついた次第です。
 お粗末!

 ちなみにきょうのお昼は初めて食べたマジックスパイスの
 スープカレー(豆&キーマ)。
 辛いのはもちろん、野菜盛りだくさんであっさり系。
 さすがスープカレー元祖、旨かったですよ@下北沢。


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June 25, 2006

美、でないからこそ

 
 きょうは帰宅後、二人の画家についての番組をみました。
 一人は大正時代に活躍した甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)に
 ついてNHK「新日曜美術館」で。
 もう一人はTBS(毎日放送製作)「情熱大陸」で奈良美智を。

 二人とも、女性を描く画家です。
 僕が甲斐庄楠音を知ったきっかけは岩井志麻子さんの名作、
 『ぼっけえ、きょうてえ』の表紙でした。『横櫛』大正5年の作。
 彼は京都の名家の出。栴檀は双葉より芳し、の例に漏れず
 十代前半からその筆は秀で、歌舞伎に通いつめて女形の仕草を
 学び、さらに実際に女性を描く際には森村泰昌さんのように
 自ら女装したそうです。
 そうすることで彼は描く女性とシンクロし、内面へと踏み込む。
 当初、彼の上記の絵は絶賛されたものの、彼が「生涯唯一愛した
 女性」が株成金に孕まされ、結婚してしまったショックの後、
 彼の描く女性は情念と禍々しさ渦巻く作風に転向し、
 「穢い絵」といわれるまでに。
 彼はその評価に対して「穢い絵で、きれいな絵に勝てねばならん」
 と決意するのでした。しかし彼は後年絵から離れ、溝口健二監督
 の美術考証・所作指導を任され、『雨月物語』で高い評価を
 得もしました(アカデミー賞衣裳部門ノミネート)。

 一方ご存知、奈良美智さんの作画風景もすごかった。
 プレハブのアトリエで一人寝起きし、ただひたすらに少女を
 描き続けている。名声の代価には無頓着ながら、表現手段の
 延長線上にあるギャラリー展示には並々ならぬ凝り方をしています。
 彼が描く少女も、年を追うごとに表情を変えて画家の心境の
 変化を映しているのです。
 
 二人とも、自らの内面の投影として女性/少女を描いています。
 もちろんその筆致はまったく違うものですが、共通する点も
 あるのです。それは、二人ともいわゆる美女や美少女を描く
 ことなく、いわば醜女(しこめ)や不思議ちゃん的な少女。
 しかしだからこそ、彼らの作品には手垢が付かず、
 質は違うけれど放つエネルギーを持ちえているのではないか。
 男性が、自らを描くことに直結するのが女性/少女であるという、
 その出発から重層的な存在なのです。

 「新日曜美術館」で楠音の書いた文章の語りの声が繊細で、
 なんとこの番組の作品にあっているのかと思ったら、
 四谷シモンさんがナレーションをされていたと後で知りました。
 贅沢の意味を知るNHK、恐るべし。


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June 24, 2006

黒豹を追う 



 今月21日、近藤芳美さんという歌人が亡くなりました。
 その名は新聞紙上で時々目にしていたものの、
 同氏の作品に触れることはなかった。
 その訃報に接した際も「あぁ、民主文学系の左翼歌人か。
 どんなリアリズムな歌を詠むのか」と思っただけでした。
 つまり、僕には味気のない歌を詠むのだと決め付けたのです。

 しかし、でした。
 きのうの朝日夕刊で歌人の馬場あき子さんが
 「時代探り続けた巨星」というタイトルで追悼文を寄せていて、
 その中で同氏の歌が引用されていたのでした。

 ―「たちまちに 君の姿を霧とざし 或る楽章をわれは思ひき」
 (『早春歌』)という一首に出会って目の鱗が落ちるような
  思いをしたのが近藤さんとの出会いだった。映画の一シーン
  を見るようだと評された歌だが、それは戦後の焦土の風景
  をも包みこむように、霧と澄んだ奏楽の美しさをひびかせ、
  青春の心を魅了する力を持っていた。

 ―「森くらく からまる網を逃れのがれ ひとつまぼろしの吾の黒豹」
 (『黒豹』)という歌がある。七〇年安保の行動の波が高まる
  頃の歌であるが、近藤さんが現実に目を据えながら、
  あるいは旅に先人の生きた跡を訪(おとな)いながら、
  たぶん自らにたえず問いかけていたのは、この歌にあるような、
  時に未練な姿としてうつる自画像への思いだったのだと思われる。
  
 
 沈潜した思考を旨とする知識人には知識人の、この歌への味わい
 方があるのでしょう。
 けれど、僕のようなミーハー人間にとっても、この歌の魅力は
 相当なものがあると告白せねばなりません。

 戦争と無縁な、書物でしか知らない人物が上記の歌を読んだなら、
 それは余りにも叙情的に過ぎ、美しすぎるという批判を受ける
 やも知れません。しかし、同氏は記事にもあるように苛酷な
 戦争体験者であり、常に民主運動の側に身を置いた人物なのです。
 そんな同氏が前出の歌を詠むことに僕は驚き、畏敬し、不明を
 恥じるほかないのです。
 また、後出の歌のなんとアンビバレントなことか!
 当時、近藤氏は50代。まさに脂の乗り切った詩人が、幻の黒豹
 に自らを託し、時代のうねりにただ巻き込まれることなくとも、
 その意味を検証しようとする憂いと底堅い理性が、
 ひしひし伝わります。それにしても、黒豹です。眩暈。
 安保闘争のデモ隊と機動隊の間をすり抜ける、俊敏で美しい
 黒豹を思い浮かべる僕の軽薄さと無知を許したまえ。
 
 真の悲しみを知っているからこそ、洗練されたレトリックに
 包まなければ、その重すぎる思いは吐露できなかったのかも、
 しれません。
 齢を重ね、ますます繊細になる感性こそが歌人や文学者を
 彼ら足りえているのですね。


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June 23, 2006

太く短く生きる道標 『RENT』


 きのうの続きです。
 若冲の絵を鑑賞した後、神楽坂のLE BRETAGNEへ久し振りに
 足を運びました。同店はそば粉のクレップで有名で、
 相棒はシードルです。店内の雰囲気は学生時代を思い出させて
 くれ、友人も昼間の酒が入ってより舌鋒鋭く楽しい(笑)
 その後、徒歩で新宿へと向かいました。

 友だちと別れ僕は一路、渋谷へ。別の友人に誘われて
 映画『RENT』を観るためです。
 前回、その友人が2度ほどチケットを取ろうとしても満席だった
 ということを考慮して若冲前に席をとったら01、02でした。
 話を聞くとミュージカル(@日米)を含め、彼は同作を観ようとして
 出来なかった、数年来の思い入れがあるらしく御見それしました。

 舞台は80年代末、ニューヨーク。詳しい内容はここへ。

 今、解説を読んで歌詞にフランス語がちりばめられていた 
 (と聴こえた)のは、物語のベースがプッチーニのオペラ、
 『LA BOHEME』が下敷きになっていると知りました。
 残念ながらバロック・オペラ専従(笑)の僕はまったく知らない
 のですが。

 オープニングからこれがミュージカルであることを感じさせ、
 物語ほぼ全編が歌で構成されており、聴き慣れない僕には
 おなか一杯でしたが贅沢なことです。
 それにしても重い内容です。まるでアフリカのように
 近所の人が男女関係なくほとんどHIVキャリアで、80年代が
 いかにHIVに無抵抗であったかよく分かりました。
 これをもしフツウに舞台にしたなら深刻すぎて仕方ない、
 そこをミュージカルにして多くの人の目に触れさせることで
 啓蒙の役割も果たしたのではないでしょうか。

 家賃が払えるか払えないか、から出発するこの物語。
 アーティストが生きることと生活することの主題もはらみ、
 短い人生を謳歌するとはいかなることかを希求する、
 とは厳しくも楽しいものだと、響く声が歌い上げていました。




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June 22, 2006

若冲にあてられる

 
 きょうは充実した一日でした。
 
 まずは、友人のプログラマーと待ち合わせをして宮城内にある
 三の丸尚蔵館
 「花鳥−愛でる心、彩る技 <若冲を中心に>」
 を鑑賞しました。

 会場の大半は明、元、清代に描かれた花鳥画が展示され、
 今は色あせていますが、これが描かれた当時はさぞや華麗で
 美しい画面が展開していたと想像できます。
 「百鳥図」は「myriad birds of good omens」と訳されていて、
 “吉兆の鳥たち”というおめでたい意味が、画面の華やかさと共に
 理解しやすくて助かりました。
 また清代に描かれた草花とトンボや蜂、アマガエルやヒキガエルが
 たくさん溢れた図は、楽しくて可憐でみていてわくわくします。

 そして、今展示の主眼である伊藤若冲(18世紀日本)のとんでもない
 画が数点。若冲の存在をしったのは加藤周一さんが数年前、
 「夕陽妄語」で京都国立博物館で開催された若冲展に評を
 書かれていて興味深く読んだのでした。
 そして、きょう目にした作品も圧倒的な存在感でした。

 例えるならヘンデルやラモーのオペラのアリアです。
 写実とは一線を画し、山水画や鳥瞰図の手法を取り入れて
 下草などは大胆な筆遣いで処理しています。
 要は、どこに焦点が当られているか。
 群飛してくる雀たち(一羽だけ白がアクセント)には動き
 は感じられず、そこだけ切り抜いたまさに静止画。ヘンデルの
 アリアがレチタティーヴォを介しても独立して展開するのと似て
 います。水は水色をしている必要はなく、若冲が愛した鶏の
 明確な色とバックに映える紺と白の紫陽花がえもいわれません。
 その構図の大胆さはオペラの書き割りの如く。
 違和感と調和がぶつかるエネルギーを発散していました。
 その色たちが、鳥たちが、花たちが、今も目の前をちらつきます。

 つづきは、またあすに。


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June 21, 2006

いつもそこにある真実 ―後



 さらに、おとといの続きです。
 明大前のギャラリィから新宿コニカミノルタプラザへ。

 コニカミノルタプラザ特別企画展
 地球の上に生きる2006 DAYS JAPAN
 フォトジャーナリズム写真展

 ギャラリーCで写真を見ていると、なんと広河隆一さんが
 いらっしゃりましたが鷹野隆大さんの時の様には話しかける
 勇気はなく、アンケートに思いを込めました。

 構成は第1部/第2回DAYS国際フォトジャーナリズム大賞受賞
 作品、第2部/DAYSの時代、第3部/地球の息吹の三部構成を
 とっていて、僕には第2部、第3部が印象深かったです。

 第1部では、インドで男子を望む母親が自ら産んだ女の子たちに
 みんな男の子の格好をさせて育てている様子が宗教の業の深さを
 感じずにはいられませんでした。もちろん子ども本人が自分の中で
 身体と心の性の不一致があるならばそれは逆に社会が受容すべき
 事象ではあるけれど、親が自分の意に沿わぬ子どもの人権を
 恒久的に否定する姿に、男尊女卑の病を見ざるを得ません。

 第2部では、壊死する地球というコーナーで半ば人災の旱魃被害
 によって、字義通り骨と皮になった象の遺体の写真に言葉が
 ありません。あの寛大と強さの顕現であるような動物が、
 干からびるのは何を象徴しているでしょうか。
 また、ジャカルタ駅の床の上で一心に眠る子どもたち。
 死んだかのように、雑踏の中何人もの子どもたちが横たわる姿を
 見て、この子たちはあの優しいタオルケットの香りも感触も、
 それに直結した母親の愛も知らないのか、と思うとやりきれません。
 格差社会とはこういうものか、いずれ日本もこうなるのか、と。

 第3部。レザという写真家の、アフガニスタンでの作品。
 パシュトゥン人の少女は、鼻水だでて手も汚れているけれど、
 その強靭な眼差しを伴った美しさの前にたじろぎます。
 そして1983年に撮影された、アフガニスタンの山奥の開けた
 場所で後方には山脈、空は曇天の下、唐突に置かれたベットの上に
 イスラム教徒の老人が本を読んでいる。解説に「あなたが
 どこにいようと、あなたの家、あなたの国、あなたの物語は
 あなたに付きしたがっている」と彼の言葉が記されていました。
 どれほどに精神性豊かな老人でも、そう信じなけば故郷を
 追われた寂しさはいかんともしがたいのです。彼を勝手に
 不幸だと決め付けるのは不遜ではあるけれど、彼は彼で幸福なの
 だと突き放すのも思考停止です。

 土門拳の「筑豊の子どもたち」をみて、こうした人々が日本の
 戦後復興の礎/犠牲となったのであり、なるほど福岡県の
 旧日本社会党が強かったのは“労働者革命”を必要とした、
 こうした切実な人々の思いが込められていたのだなぁと。
 「ニュース23」の“マンデイプラス”でみた、大西暢夫の
 精神病棟で暮らす人々の豊かな表情に、あっちとこっちの
 差なんて、どれほどのものかと。単に多数にあわないだけで、
 個々人に世界があり、規律があり、喜びがある。だけどそれでも
 人より苦しみを多く知っている人々なのでした。

 最後にはマダガスカルの立ち跳びしながら移動するサルの
 かわいい写真に笑顔がこぼれます。暑いので木に抱きついて
 身体を冷やす姿は人間と同じですね。

 こうして多くの写真を見たなかで、どうしても解決できない
 問題があります。権徹が撮った在日韓国人の金正美さんと
 ハンセン病元患者の桜井哲夫さんの写真で、桜井さんの顔をみて、
 『コンスタンティン』に登場した悪魔の顔を連想したのでした。
 なんと怖ろしいことか。
 なぜ差別され、苦しみぬいた人をみて「悪魔」なのか。
 どんなに美しい容姿をしていても卑しい心の人間は山ほどいるし、
 かつ卑しい心が顔に出ている人もいる。つくづく外見とは
 なんでしょうか。またいつか来た道堂々巡りです。

 いつもそこにある真実は、自分の問題でした。


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June 20, 2006

いつもそこにある真実 ―前


 きのう『デスノート』がとても薄っぺらに思えたのは
 その直前にみた写真の数々のためであった影響だと
 やはり思うのであります。

 まず向かったのは明大前にあるKID AILAK HALL
 開催された写真展「メディアは命を救えるか」。

 明大前、実は二番目の最寄り駅でありその異彩を放つ
 ビル自体は以前から気にがなっていたのですが、
 なんとも正体がつかめず、ずっと素通りしてきました。 
 ギャラリーはさほど広くはないけれど3、4階が吹き抜けで
 つながっており、雑誌『DAYS JAPAN』で掲載された写真を
 展示してありました。ちなみに『DAYS JAPAN』の編集部は
 すぐ近く明大和泉校舎並びのビルの一室にあります。

 『DAYS JAPAN』をご存じない方は、ぜひこちらをクリックを。
 僕も以前は同誌を購読していたのですが、僕のようなフヌケで
 日和見主義人間にとって、この雑誌の内容を咀嚼して、
 生活の一部になど到底出来なかった。敵前逃亡同然。

 そしてまさに、そんな世界が会場には厳然とあったのです。
 パキスタン大地震で救助が遅れ、圧迫によって顔の肉が腫れ
 てしまった少女、日本軍が中国に残してきた毒ガス弾によって
 負傷した中国人(なんといまだ40万発が地中に残存)、
 日本軍の空襲される上海や同市の遊園地で空襲に遭って
 殺された人々…
 また有名なところでは、処刑される南ヴェトナム民族解放戦線兵士、
 右翼学生に壇上で刺殺される旧日本社会党浅沼委員長など。

 そして解説に付された言葉の中に「なぜ写真を撮る前に
 助けなかったのだ」という社会からの批判が起きたというもの。
 確かにそういう考え方もあり、まったくは僕もその意見を否定は
 しませんしできない。けれど常にそれはとっさの判断で、
 被写体との距離もある。
 そして何より、1966年度の世界報道写真賞を受賞した、
 沢田教一の同年2月24日に撮影された、米軍の戦車につながれ、
 ずるずると地面を引きずられる南ヴェトナム民族解放戦線兵士の
 遺体写真の解説で、沢田教一氏はこの受賞に喜ぶことなく、
 寡黙になってしまった、とあったのでした。

 そうです。誰だって、報道写真家自身でさえあのような状況を
 前にして写真を撮ることなど、平静であったり、高潔な職業の
 使命感に燃えてといったことなど、まずないのだということ。
 あの写された瞬間は、カメラマンのとっさの判断と、躊躇と、
 伝えなければという思いが、ほんの1秒にも満たない瞬間に
 凝縮されたものなのではないでしょうか。
 そして、同展テーマ「メディアは命を救えるか」に対しては、
 そうした事件・瞬間があり、事態の悪化(例えばヴェトナム戦争や
 現在進行中のイラク戦争)という言葉で片付けられ、そこで
 無残に殺されていく命を少なくとも減らそうとする世論を
 社会に生み出しうるし、実際そうだったし今も(日本は別)
 欧米でイラク戦争参加自体が為政者に問われているではないか。
 故に事後的にではあるけれど、無謀行為の下で失われる命を
 救える、と僕は感じました。

 テレビは、スポンサーという給料の出所の意向を反映して、
 (NHKも予算の出所である自民党の意向に沿って)
 「伝えねばならないこと」(広河隆一同誌編集長)を伝えず、
 「あたかも犠牲の少ない戦争」(同)に見せかけているのです。

 繰り返しますが、僕はフヌケですから「まったくその通り!
 そのように生きていきます!」とは言いかねます。
 けれど、少なくともこうした雑誌が存在し、それを見れば
 真実がいつでも待ち構えていることを肝に銘じたいです。

 この展示の後、新宿のコニカミノルタプラザで同時開催された
 「コニカミノルタプラザ特別企画展/地球の上に生きる2006
  DAYS JAPAN フォトジャーナリズム写真展」については
 またあすに。


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June 19, 2006

人は低きに流れるもの 『デスノート』前編


 きょうは写真展へ足を運び、映画を鑑賞。
 どうしても未だ知らぬ『デスノート』(前編)を早く
 観てみたかったのです。原作は僕でも名前を知っていて
 評判の高いマンガ。

 ストーリーは、名前を書いた人間が死ぬノートを手に入れた、
 既に司法試験に受かっている大学生 夜神月(これでヤガミライト
 と読む。藤原達也)。彼の側にはリュークと名乗り、デスノートに
 触れた者にしか見えない死神(ほぼ傍観者)がついている。
 彼は司法制度自体に不審を抱き、自ら犯罪者を次々に抹殺し、
 世間の多くが彼の存在を救世主キラと呼ぶようになる。
 それに対して彼の父である警視庁の夜神総一郎(鹿賀丈史)が
 FBIとも関係のある探偵的役割を果たすL(松山ケンイチ)に
 不承不承協力を得て、皮肉にも立ち向かうことになる。
 主にここで描かれるのは、月/Lの頭脳を駆使した対決。


 さてさて、監督は平成ガメラシリーズの金子修介氏。
 マンガの読者からも好評という作品が、どれだけおもしろい
 かと思って足を運んだのですが。。。

 まず、藤原達也はいつも同じ演技です。
 発声の仕方がなぜか時代劇っぽいというか舞台のまま。
 自己陶酔系の役ばかりだからかもしれませんが単調だし、
 そんな彼と鹿賀丈史が並ぶとあまりに紋切り型なのです。
 彼の妹も母親も、気持ち悪いくらい“良い家庭”の妹と母。
 と、挙げると粗が目立つのですよ。
 キラに共感するのはバカそうな学生で、
 そんな学生に正攻法に反論する学生はダサイ系だし。
 また、月がネットで侵入して警察機密情報を得ていても、
 その情報が漏れているのがネットからだとそのLでさえ
 疑わないのは非常識。どんなに迂回経路を駆使しても、
 連日連夜侵入していたら、見つからずとも犯人がどこら
 あたりに住んでいるかくらいわかるはずではないか。

 結局、人を殺す道具を手に入れれば、最初は大義名分の
 下に行っていてもいずれは堕落する=乱用するという
 お話、ということになっています。ま、そもそも犯罪者の
 処遇を知りたいからといって違法にネットで侵入し閲覧して
 いいものではなく、そもそもの始まりから自らが犯罪的
 なのに自分を正義と信じて殺しまくる月に、共感できよう
 はずもないのです。
 ただ一方で、Lは変質的に描かれますが、彼の一瞬の
 心の機微(寂しい)が描かれいるのが救い。

 ということで、残念!後編も観るけれど。
 ただ、これは映画の前にみた写真のほうが印象的すぎた
 からかもしれないのですが。


 追記:金子監督が非常にくだらなく顔出ししているのに
    劇場で笑う人がいないのもどうかしている。


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June 18, 2006

危機三題



 けさは危うく寝坊をして遅れそうになりました。
 あの悪夢を思い出します。
 小学校低学年のとき、起きたら10時すぎ。
 うちは共働きだったので両親とも午前6時すぎには
 出勤していて常に一人で起きる習慣は出来ていたのですが、
 楽しい夢を貪っていて、ふと目が醒めたら午前10時すぎ。
 もう、そこまで遅れると肝が据わって堂々と登校し、
 先生に寝坊しましたと告げても怒られることもなく
 授業に参加したのをはっきり覚えています。
 悔しかったですね。
 
 そしてけさ、眼が覚めたら午前9時10分。就業は午前10時。
 とにかく服を着てでかけ、渋谷からタクシーに乗り、
 結果的に就業10分前に着くことが出来ました。
 遅刻したら千円給料からひかれます。
 タクシー代もいつものバス代をひけばほぼ千円。
 良しとしましょう。
 小学生のときに一度、嫌な思いをすると忘れませんね。

 きょうの話題はテポドンとサッカー。
 北朝鮮がテポドンをどんな目的にせよ発射し、さらに
 失敗して日本国土に落下さえしかねないという危惧が
 朝の打ち合わせで告げられました(きのうも)。
 正直、底値をうち、あとは多少の下降があっても 
 基本的に上昇気流に乗るべき株価に余計なマイナス要因が
 できるのは勘弁して欲しいです。
 でも、社食でデスクのみなさんがフツウに昼ごはんを
 食べているのを目の当たりにして安心しました。
 きょうは天気が悪く、打ち上げ実験は延期だったそうです。

 さて、今、ニュルンベルクで“闘い”の真っ最中。
 W杯サッカー日本代表にとって危うい場面もありますが、
 勝機があるとかぁ〜ないとか(byゴメス・チェンバリン※)。

 ※CHIMPAN NEWS CHANNELのメーンキャスター


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June 17, 2006

絆の姿 ―新潟記(後)


 きのうの続きです。
 またまたやってきた「りゅーとぴあ」は雨の中エレガントに
 そして存在感をもって建っておりました。
 いつも新幹線から行き帰り眺めるガラスの城然とした姿に、
 感嘆せずにはおれないのです。

 残念だったのは初めて歩こうと思った屋上庭園が、雨と
 強風で閉鎖されていたことです。青々と茂る芝生と風に揺れる
 花々は、天気の良い日などいや増し魅力的なことか。

 さて、意見交換会はホールの舞台上にNoismダンサーの皆さんが
 全員並んで始められました。このような光景は久し振り、
 ダンサーさん各々の言葉が聞けるのを楽しみにしていきました。

 意見交換会ですから、こちらから意見を言わねば始まらない
 と思い、会場直前にやはりここ最近気になっていることを
 聞いてみようと心積もりはしていました。今回の流れは
 地元・新潟市民とNoismとのかかわりあいが中心であり、
 僕はやはり黙っていることにしました。というよりも、
 自分が考えていた質問にも直接ではないですが多くの意見が
 交感される中で答えが自ずと浮かび上がってきていたのです。

 やはり焦点はNoismの新潟市民への認知度をいかに高めるか、
 という点であったと思います。
 それは、金森穣というアーティストが、芸術監督という立場における
 苦闘の姿なのです。そして同時に、それを心から支え、実際に
 体現するダンサーのみなさんとの絆の在りようなのでした。
 
 会場からはホームページの充実を、野外での公演をしてはどうか、
 TVでの広告をうってみてはどうかという意見が上げられ、
 それに対して芸術監督が丁寧に答え、時に個々のダンサーさんが
 意見を真剣かつざっくばらんに述べました。
 お話を聞いていて、そして実際にダンサーの皆さんを目の前にして、
 あ〜ほんとうに個性豊かな皆さんが結集しているのだと感じられ、
 かつその真っ直ぐでゆるがせにならない姿は心を打ちます。

 また、どのような気持ちで踊っているかという質問のくだりで
 知ったのですが、信仰をもって踊るお二人を、その生き方だからこそ
 より共鳴できる役割を前々作で金森さんは与えたのだと気付きました。
 お二人はキリスト教、彼らが踊った作品にまつわるのはユダヤ教
 という違いはありますが、芸術はそもそも宗派を超えます。

 2時間半。濃密な時間に加えてもらい、やはりこのカンパニーは
 掛け替えが無いのだと認識を新たにしました。今年の4月から
 加わった石川勇太さん(とても感じ入っている様)には、
 新たな一歩の日ではなかったかと思うのです。

 会場前、Noismサポーターズの号外が出ていて、ありがたくも
 また僕の文章を掲載していただけました。それも一般会員としては
 ただ一人という栄誉に浴したものの、最初短く書き、依頼を受けて
 それを2時間で膨らませた文章のため瑕疵も多く…
 恥ならええよ、とご参考に以下へ掲載させて頂きます。

 ◆

 4月26日、さいたま市大宮区。“りゅーとぴあ”を守る地霊が白山神社ならば、2000年余、同地には氷川の社さまが鎮座するといわれています。しかしここは高層ビルの真下の広場。吹き抜けるのはビル風。ただ不思議なのは街の中心部でありながら、ある種の「静けさ」があるということ。空間自体が、Noismの登場を待ち構えているようでした。
 暗闇が迫る夕刻。ライトが幻想的に会場を照らし、チューリップで作られたオブジェがぼんぼりのように浮かび上がっています。白い衣装を着た方が登場し、おもむろにibookを開くと低音が穏やかに響きはじめ、続いて能楽で使用される楽器(笙、鼓、笛)を携えた装束お三方がしずしずと入場。そして後方、石段を見上げれば面を被ったダンサーが登場、いったん我々は道を彼らにあけるのでした。初めて写真を撮りながらの鑑賞。
 展開されるのはまさに野外に相応しい、自然の精気が形作ったモノたちの秘する饗宴/供宴。抑制された、というよりもあるがままの姿。精神性と身体性が連綿たる“悠久の一部”として切り取られ、その有り様を目の当たりにしているかのようです。響く掛け合いの声、激しい鼓や笛の音。ときに彼らはそれらに反応し、身を委ねもするけれど、彼らの流れには変わりはないのです。当然、彼らは創造者に統御され、かつダンサー各々の意思の下において展開している。しかし、それを意識させない“場”の連続。
 止まる瞬間。
 はらはらと風に揺れる衣装の白い袖が、同日会場に来る前に根津美術館で鑑賞し、錯覚した、円山応挙筆『藤花図』の房が、風にたゆたうように見えた幻影に重なりました。柳に風、という理。彼らは、やはり来た石段を昇って幕。行く方来し方は同じなのだと。彼らが舞った足もとは人工物とはいえ石畳で、その歩みはまるでそこに吸い付きながら歩を進めているかのようでした。地に足が着く、とはこういうことなのかも知れません。同じ地に“縛られる”ことなく、しかし大地と交感している。ふだん豊饒なエネルギーある新潟の地と通い合っている彼らが、その時、大宮の地の力に感応している現場に我々は
立ち会っていたのです。身体芸術を究める彼ら故、全国を回り、いずれ世界を巡って各地のエネルギーを裡に蓄積し、次なる作品へと昇華していくのです。


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June 16, 2006

たまごに魅了―新潟記(前)

 

 きのう、Noism意見交換会へ出席するために新潟市へいき、けさ戻りました。行きのMAXトキに乗り込むと当然のことながらスーツサラリーマンばかり(僕もサラリーマンですが)。おいしいお弁当も、あの特有のヘアトニック臭と一緒では魅力半減でした。

 まずはマイミク以前からお世話になっている熱烈金森穣ファンの友人(年上おねえさま)と合流し万代島美術館へ開催中の
 『ベオグラード国立美術館所蔵
   フランス印象派と20世紀の巨匠たち』展を鑑賞しました。同館を訪れるのは二度目です。会場にはコロー、ピサロ、モネ、ドガ、ルノワール、ロートレック、ゴーギャンボナールなど有名どころが居並ぶ。

 ドーミエ:母性。社会風刺画のドーミエらしく、題名からイメージする柔らかさとは画自体の暗さは一見相容れません。けれど今以上に格差社会で寄り添う2人の子どもたちを守る母の苦難と気負いは、決して生易しいものではなかった筈。そんな思いがこの小品を包んでいるのでした。

 コロー:ポール=ベルトーの公園にて。木立の中に一人の女性。スポットライトのように彼女に優しい木漏れ日が差し、風に揺れる葉のさざめきが聞こえてきます。並べられたイタリアの田舎の風景画もそうですが、画面を見つめるほどその世界が見る者を取り込み、画の中の音、匂い、風、日差しが感じられる風景画の心地よさ。パリ市街を題材としているとはいえ、後に展示されていたユトリロのそれとは大きな違いに感じられました。ユトリロの冷めた眼差しには共鳴出来ませんでした。

 モネのルーアン大聖堂の連作の一つを見つつ、ピサロ:テアトル・フランセ広場、陽光の効果。奥にオペラ座を望む、19世紀末(1898年作)パリ!といったにぎやかさと活気が伝わります。この俯瞰はオスマン・パリ市長の今にも生きるパリ大改造のおかげでしょう。

 ドガの踊り子を描いた作品が並びます。以前から感じてはいたのですが、彼の興味とは踊り子の容姿の美醜ではなく、彼女ら存在自体であり、その身体性に依る構図なのだと改めて感じました。だからあそこまで踊る彼女らに執着し、まるで疾駆する馬の一瞬一瞬を捉えるように描いたのかも知れません。

 ルノワールのデッサンが数点ある中、所謂ルノワール特有のぼてぼてした筆致以前の、眠る水浴する女性、の画面の暗さが魅力的でした。浴衣のわずかな白が黒い背景に溶け、虚ろな夢のワンシーンのごとく。

 ロートレック:若い女性の肖像(リヴィエール嬢)。彼がアカデミーの習作として描いた作品らしく、すっくと視線をこちらに向けた令嬢の美しさ。けれど冷静に見直せば画面を覆う緑。それは手の指にもかかり、幻想的でさえあります。やはりロートレック。

 画面は穏やかなのにゴーギャン、ボナールの激しさ秘めた強い色に(ボナールは諧謔でさえある)惹かれつつも、モロー、そしてなによりルドンの登場に舞い上がってしまいました…浮かぶ球体。目。顔付きゆでたまご。そしてどう考えても生身でなさそうな美しい女性や犬の横顔… このあとマティス:窓辺やピカソの印象的な作品もあったのですが、僕にとってルドンの後には霞んでしまいました。今書きながら思えば、ユトリロのタッチだって富裕故の有閑を感じとれたかもしれないのに。

 売店でルドンの顔付きゆでたまごのストラップを見つけ小踊りし、タクシーで目的地、りゅーとぴあに向かったのでした。

 続きはまたあすに。


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June 15, 2006

バス車中。死にたくなる。


 この文面は13日に書いています。13日は会社で仕事泊まり、14日はそのまま実家に戻り、15日はいったんここに帰ってから新潟への予定です。つまり、これをアップしてからすぐ東京駅へ向かっているはず。

 こんな機会だから手抜きではなく、僕が「上手い!」と思う文章を紹介させてください。これを会社へ向かうバス内で読み、そのうまさに死にたくなりました(読んだ時間が夕方であることも影響)。
 掲載は5月26日の朝日夕刊。「文化芸能」欄“モノ語り”というコーナーで、各編集委員が毎週持ち回りで好きなことを書いているようです。


 「5千円札 しわと折れ目 人生刻む1枚」

 財布の中を見て思う。「一葉さん、このごろ疲れているみたい」。5千円札に、折れ目やしわが目立つ気がするのだ。
 もちろん千円、1万円札にも疲労は見える。でも彼らは仲間と一緒にいることが多く、中に1枚くらいはピンピンに元気なものが交じっている。しかし、樋口一葉はたいてい独りぼっち。さらに、福沢諭吉の謹厳な表情や野口英世のバイタリティーあふれる顔つきと比べると、その面ざしは、凛としてはいても、どこかはかなげだ。
 日本銀行によると、5千円札の平均寿命は1〜2年。流通し始めて1年半だから、いまは一葉さんの疲れが一番たまっている時期かもしれない。
 現実の一葉は生涯お金で苦労した。お札になったのは少々皮肉な気がしていたが、その顔を見ているうちに、そうでもないかもしれない、と思い直した。
 『樋口一葉に聞く』(文春文庫)で作家井上ひさしさんが、こんな指摘をしている。
 一葉が学び、師匠の代稽古もした歌塾は、貴族令嬢が集い、出稽古には皇后も顔を出す「サロン」だった。一方で一葉は新開地の湿った借家で、無筆の私娼たちの恋文の代筆もしていた。彼女は明治の女の最上層と最下層を同時に生きていた。女たちの喜びや悲しみを描くのにこれほどよい位置につけていた作家をほかに知らない―と。
 様々な相手の懐に入る。作家・一葉の生きた道は、お金と一脈通じている。私の所にめぐってきた1枚はどんな人を渡ってきたのだろう。汗だくで働いた日当の一部だったかもしれないし、裕福なマダムのランチ代だったかもしれない。小さくたたまれた「虎の子」だったのかも…。折れ目のしわの分だけ、いろんな人生をみてきたに違いない。(編集委員・山口宏子)


 この文章を書くきっかけは、おそらく山口氏が『樋口一葉に聞く』を読み、感じるところがあったからでしょう。そして、それを端緒として普段感じていることをうまくつなげて前段を構成し、“結”の部分で叙情性を持たせてまとめる。
 お札について書く上での細かい情報を入れつつ、流通紙幣という字にすればそっけない意味合いを、具体的ふくらませる。そのことで今世界を牛耳る“数字上の金”ではなく、実体として我々が接している金とそれをめぐる人の物語へとたぐりよせるのです。劇評を書かれても素晴らしい、山口編集委員の手腕をみた気がしました。


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June 13, 2006

がんばれ、邦画も!

 
 昨晩、TBSがNHKにぶつけたのが当時テレビ中継視聴率90%だった「あさま山荘事件」を題材にとった映画というのも確信犯的で面白かったです。僕も観ちゃいましたから(ただ映画終了後、NHKに変えるとご存じの結果でした。まったくの門外漢なので何も申しあげられません)。これで『光の雨』もみているので、同事件を赤軍側・制圧側それぞれの立場に照準を当てた作品を両方観たわけです。しかしその苛酷さは、比べものになりません(善悪とかの問題ではなく)。

 そんな日本映画界について、朝日夕刊(6月1日)カンヌ映画祭をめぐる記事の中で「国際映画祭の場では、日本で当たった映画はダメだと見る向きさえある」と、仙頭武則プロデューサーが指摘していました。さらに同氏は「何がしたいのか、何が良いものかという価値観を、作り手は明確に持つべきだ。類型化した感情を、等身大の人物に、説明的に語らせる映画多い」とも。その結果、「スクリーン・インターナショナル」台北支局の記者でイタリアのウディネ映画祭作品選考委員のステファン・クレミン氏は「日本映画がコンペに無かったのは良いことだ。最近は主張も個性も希薄だから、再出発すべきだ」と言われるありさまです。確かに僕自身、中学時代に伊丹監督の作品で味をしめ、塩田明彦監督の『どこまでもいこう』や緒方明監督『独立少年合唱団』を観て、邦画はこんなに面白いのか!と感動した思いも、今ももっているかといえば少し違っています。もちろん去年今年で挙げるなら『いつか読書する日』や『あおげば尊し』『ゲルマニウムの夜』などよい作品はありますがヒットはしませんよね。ただ、今回同記事の中でも『嫌われ松子の一生』が一定評価を得ていたので少しは安心できます。また秋には黒沢清監督の新作が控えており、楽しみ。

 しかし世の中はかなり違うようで、ここ最近の邦画ヒット作は『踊る大走査線2』『世界の中心で、愛を叫ぶ』(未見)そして『LIMIT OF LOVE海猿』(未見/前作は観ました)だそうです。そこで描かれるのは単純化された組織vs個人であり、純愛であり、人命救助に絡ませた色恋の物語でしょう。セカチューも海猿2も未見ですから多くはいえませんが、目の肥えた西欧人にとってこの複雑で困難に満ちた世界が、そうした物語で集約できるとは到底思えないのではないでしょうか。社会性の衣をまとい、実はバッシングという行為自体が宿す暗さを描いた(秋山登氏、そしてフランス留学時に観た一橋大院生の友人も同様のことを指摘)『バッシング』(上映中。観る気なし)が去年のコンペに選ばれたのは、なんとも皮肉な話です。

 先日、評判がいいというドラマ『医龍』を少しだけ見たのですが、びっくり。舞台を病院にして『踊る〜』と同じ“組織内部での駆け引き”話ではないですか。多分いままで病院を舞台にしたコメディでないドラマってみんな同じではなかったのか。リメイクでない『白い巨塔』から一体何年たっているのか。何年もみていませんが『ER』的な発想はなかったんでしょうね。
 つまり、もう何十年も同じ筋のバリエーションを見続けている国民の目が肥えるわけもなく、「類型化」されない物語には魅力を感じないのでしょう。ただ、それでも『すいか』や『タイガー&ドラゴン』や『時効警察』を見ている人も多数もいるわけです。何も大上段に構える必要はないし自分はこうして毎日毎日生きているけれど、世界は多様で、思いもつかないものなんだと認識できる感性や想像力こそが、われらが邦画を“鍛える目”に違いないのです。がんばれ、邦画も!


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June 12, 2006

オッペンハイム↑ナイマン↓



 きのうは代休。久し振りに休みの日曜日でした。
 ということで、幼なじみとまず東京都現代美術館−MOT−
 で開催中、カルティエ現代美術財団展へ。
 夜は外苑前でマイケル・ナイマン バンドのコンサートに
 足を運びました。

 同展は、1984年に設立されたカルティエ現代美術財団の
 収蔵コレクションの一部を公開したものです。今回この
 展示のオープニングで石原都知事が「みるものが無い。
 これで日本文化の西洋文化への優越が示された」旨の発言が
 フランスで報道され、物議をかもしたことは日本国内では
 余り報道されていません。

 ライザ・ルー:「裏庭」
 4年がかりで、膨大なビーズで作られた“幸福”なシーン。
 芝生、植えられて咲く花、一本の木の下にはおいしそうな
 料理が載っているテーブルにバーベキューセット。
 干された洗濯物や芝刈り機などなど、幸福の材料はそろい、
 いないのはそこで集う家族だけ。
 ビーズをみて思いました。これは現代のモザイク芸術ではないか。
 ヴェネツィアの聖マルコ大聖堂でみたモザイクで作られた
 天国の風景。しかし、現代人の夢見る“天国”とは、
 まさにこんな野外で楽しく過ごすシーンではないだろうか。
 庭にはなんと2羽のフラミンゴ。ペリカン(=キリストの象徴)
 ではなく、アダムとイブの仮象でしょうか。

 ジャン=ミシェル・オトニエル:「恋する風景」
 こちらは糸状のガラス製品、真っ赤。題名からして、
 どうみても女性器・男性器がところどころで連結され、
 ぶら下がっている。血が、感情が滴って見えてくる。

 デイヴィッド・ハモンズ:「無題」
 あざとすぎる作品。民族系の木彫りの様々な呪術的面が
 重ねに重ねられ突起している16面。そしてその最前面には
 鏡がとりつけられ、お前の顔も仮面だといわんばかり。
 これはまるで「能」面のアニメ化。やっぱりあざとい。

 マルク・クチュリエ:「あなたはここに」
 果実をたわわに実らせた鉄製の木が5本。その木が生えて
 いる下の箱には水を表すらしき水色が張ってある。
 ??「これでVous etes,iciなのか」。そこでない頭を絞る。
 もしこれが本当の水ならば根腐れして実などなるはずない。
 それにこの葉っぱの色、緑ではなく枯れ葉色ではないか。
 まさに矛盾だらけ・・・あ、そうか、僕も矛盾だらけ。
 だから「あなたはここに」。納得。

 ロン・ミュエク:「イン・ベッド」
 同展の代表作。巨大な老年に近い中年女性の模型が、ベットの
 なかで横たわり、物憂げに片手を顔に当てて物憂げにしている。
 その瞳には精気がなく、やるかたなしといった風情。しかし
 この巨大さは何か。妄想肥大した女性は、かくも哀れか。

 トニー・アウスラー:「ミラー・メイズ」
 大きな球体に眼の画像とコラージュが映し出される。
 まるでルドンの焼き直し。自意識過剰の陳腐なヴァリアシオン。

 デニス・オッペンハイム:「テーブル・ピース」
 これがおもしろい!長い長いテープルの両端に、マイクを
 前に黒いスーツを着て肌が白い小さい人形と、その逆の色の
 人形がたがいに「black」「white」と言い合っている。
 その間合いがずれたり重なったりで聴き取りにくかったり、
 明瞭であったり。1975年の作品という冷戦下の政治状況(想像)
 をこれほどユーモアをもって表現できるのはなんとチャーミング。

 ほかにも『エルム街の悪夢』を思わせる作品や、各種映像、
 スピーカーから響く振動に身体の芯から陶酔が沸き起こる
 空間などなど、パリに行っても観られない数々の作品鑑賞に
 あっという間に時間が過ぎました。

 その後向かったマイケル・ナイマンのコンサート。
 これは余り触れないでおきたいです。会場全体は盛り上がった
 (初めてみたスタンディングオベーション!)のですが
 僕と彼女は拍手が出来ません。とりわけ絶対音感をもった
 彼女には苦痛の2時間だったとさんざんやられました。
 ナイマンはCDで聴くべし。

 美術展で盛り上がり、コンサートで急降下。
 ま、こうした日もありますよね。


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June 11, 2006

善悪の彼岸

   
 「はい、旦那さん」
 「アシルさんだよ」と上品に男が言う。
 給仕女はそれに答えないでコップに注ぐ。男は急に素早く
 鼻から指をひき、掌を下にして両手をテーブルの上に置く。
 男は顔をのけざらした。眼が光っている。つめたい声で彼が言う。
 「かわいそうな娘さん」
 給仕女は、飛び上がらんばかりにびっくりする。私もびっくりする。
 男はなんとも言いようのない表情をしている。
               J-P・サルトル著、白井浩司訳『嘔吐』
                         人文書院、p.106

 この一節を読み、ある映画のワンシーンを思い出しました。
 それは、高1か中3で劇場で観た『エクソシスト3』(1990年)の。
 『エクソシスト』で己が身体に悪魔パズスを乗り移らせ部屋の
 窓を突き破り、家外の階段へと身を翻して自殺したカラス神父が、
 その後脳を破壊されながらも悪魔と共棲する形で生きのびる。
 彼は精神病院に収容され、悪魔は彼の肉体を通して外界を
 支配し、頻発する猟奇事件を追跡する刑事と対峙することになる。
 本来のカラス神父はほとんど表面に出てくることはなく、
 刑事が彼にお前は何者だと問えば、新約聖書マルコ5章9節に
 登場する“墓人に憑く汚れた霊”の言葉「我が名はレギオン。
 我々は大勢であるがゆえに。」と返答する。

 ■□

 そして思い出したのはこんなシーン。刑事が根気強く質問する
 ものの悪魔は彼をはぐらかすばかり。そして突然、彼の口から
 清澄な女声でグレゴリオ聖歌の一節が歌われるのです。
 直後のワシントンD.C.の夕景とあいまって印象深いです。

 『オーメン』『エミリーローズ』などなど、西洋文化圏に
 おいて「悪魔」「神vs悪魔」を題材にした映画はよく作られて
 いますよね。
 神は常に超然とし、悪魔は我々のすぐ側にいる、というのが
 だいたいのあり方であり、それが不可侵・聖なる神が神たる
 所以でもあるのでしょうね。だからまだ観ていませんが、
 『ダ・ヴィンチ・コード』や最近発見された「ユダの福音書」を
 何とか否定しようとする。ま、神学論争をおいておきます。

 □■

 悪魔は多様なものがこうしてごっちゃになったものであり、
 神父の身体をのっとり、神を讃える歌を“おふざけ”で歌う。
 それはそのまま人間性の多面性を映し、倫理とやりたい放題の
 境界をぼかしてしまう。だから悪魔は身近であり誘惑者であり、
 人間自身なのでしょう。

 『嘔吐』のこの一説の後、登場する3人のあいだになんとも
 いえない雰囲気が支配します。給仕女は感情を害し、言った
 男と作家である主人公は落ち着かない。しかし、ふと唐突に
 投げ入れられた石による波紋は大きく、それだけ感情の揺れも
 大きいのです。心が動く。
 悪魔は、人の心がマイナスに動けば動くこど力を得るといいます。
 悪魔と知っているからこそ、厳しい表情をした男の喉から
 澄み切った女声が響く姿に心動くのは、マイナスか、プラスか。
 いや、動く瞬間それ自身こそが僕には幸福なのだ。


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June 10, 2006

ツキも善し悪し



 こちらでも何度となく情けなくも吐露していることに、
 なかなか思うような転職が出来ない、という
 最近の悩みがあります。
 焦る必要はないのですが、もしこのままダメ?とか
 考えると焦り、一方で僕の信じる大いなる力に守られ、
 然るべきときに然るべきようになる、と冷静に考えれば
 いいのですが僕は弱い人間でもあり。

 そんななか先日の夕刻。出勤前に履歴書を投函しようと
 ぎりぎりの時間で渋谷郵便局(24時間受付)へ井の頭線
 渋谷駅から走り、郵便局からバス停まで更に走りました。
 で、携帯電話を落としました。
 最初ないことに気付いたとき、あぁ家に忘れた、と思って
 夜勤明けで帰宅するとこれがない。
 ほとんどあきらめてauセンターに電話したところ、
 渋谷郵便局まん前のauショップに拾われて保管されている
 というではありませんか!
 受け取りに行くと少し端が欠けてしまった2年間お付き合い
 している携帯君がそこにまっていました。
 彼の頭脳には、彼の記憶でしかつながっていないかつての
 同僚の電話番号などがつまっており、一瞬あきらめたものでした。
 あの人にはもしかしたら二度と会えないのかもしれない、と。
 けれど見つかり、世の中捨てたもんじゃないよと感じ入ったのです。
 が、それも束の間。
 こんなことで運を使ってしまってもいいのか!?
 当日会った友人(年上キュレーターおねえさん)の仰せの通り、
 それが厄落としとなればいいのですけれど。

 しかしきょう、いきつけの駅前和菓子屋さんで数点買って
 おつりをもらってから目の前にある大判なおまんじゅうに
 目が行き、買おうか、でも小銭はあるかと一瞬躊躇すると
 気のいい女将さんがその饅頭をおまけしてくれた!
 さらに薬のセイジョーから何だか分からないけれど中身は
 充実している福袋が当選して贈られてきたり… 

 正直、皆さんにはどうでもいいことなんですけれど、
 僕のような器量の狭い人間にとって、こんなに細かく細かく
 得すると、大願へのツキが逃げるのではと疑心暗鬼になるのです。
 ○○さま!(信仰対象の仮称)、
 しっかりこの手にツキの尻尾を握らせ、
 放させないで下さいませ!!


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June 09, 2006

賢帝の御意に背くべからず

 
 先日、外国人記者から「教育基本法改定は戦前の国家
 主義教育に戻るのではないか」という質問に対し、
 今上陛下は憲法上そうした質問に直接意見を述べることは
 控えたいとしながら、戦前の1930年代は軍部が暴走、
 総理大臣や国務大臣が殺害されるなど、国民は自由に
 意見がいえる状況ではなかった。しかし今、そうした歴史を
 しかと胸に刻むことで二度と同じ歴史を繰り返さないことを
 信じます」といった旨を述べられました。
 
 以前、陛下は哀れな都教育委員が園遊会で「私めの仕事は
 生徒に君が代を歌わせ、日の丸を揚げさせることです」と
 さぞやしたり顔でいったであろう発言に「そうしたものは
 強制するものではなく自然に」といった趣旨で応えられた
 こともありました。

 陛下が今回「だから教育基本法を改正しても問題ない」と
 応えられたのではない、と僕は考えます。
 見聞広き陛下は、歴史教育の現状を当然ながら把握されており、
 1930年代の二・二六事件を始めとする軍部暴走の歴史教育が
 十分になされていない、という状況に暗に憂慮を示されたので
 はないか。
 一方きょう、防衛庁を防衛省に格上げする動きが立法の場に
 正式に移されようとしています。
 つまり、軍部暴走の歴史を国民がよく知らないこと自体が
 歴史の繰り返しを招くという陛下の深謀遠慮あるお言葉に、
 ふだんは「天皇陛下万歳」とか叫んでいる議員の方々は、
 都合が悪くなるとそのお言葉を無視するという暴挙に
 でているとしか言いようがないのです。

 賢帝の言葉に耳を傾けよ。そして実行せよ。
 とりわけ、今上陛下に認証された国務大臣たちよ。


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June 08, 2006

僕らも気付けるか 『嫌われ松子の一生』

 
 昨晩はいつもの友人たちと下北沢のイタリアンIL NIDOへ 
 久し振りにお邪魔しました。
 毎回の事ながら逸品の数々。夏に相応しい涼感溢れる前菜、
 香り高いトリュフ、味わい深い羊。
 ただ、おいしさに任せてワイン飲んだら二日酔いをし、
 人生で2度目くらいです。飲んでるうちに頭痛くないのは
 要注意だと分かりました。

 ◆

 さて、公開して間もないのに男女問わず周囲で観にいく
 人が多い『嫌われ松子の一生』を鑑賞しました。
 渋谷パルコPART3シネクイント。PARCOカード提示で1500円。

 中谷美紀、瑛太、伊勢谷友介、香川照之、市川実日子、
 黒沢あすか、柄本明、宮藤官九郎、劇団ひとり、荒川良々、
 広川淳、武田真治、木野花、嶋田久作、ゴリほか出演
 監督は『下妻物語』の中島哲也。

 物語は、ぐうたら生活真っ最中の川尻笙(瑛太)が、父(香川)
 に荒川土手で殺された叔母松子(中谷)の部屋を片付けてくれと
 頼まれるところから始まり、彼に松子の関係者が絡む形で
 彼女の一生が再現。時に笙、時に松子や登場人物が語りを
 務めて展開していきます。
 そこには病弱な妹(市川)に父(柄本)がかかりきりで彼の
 気をひこうと松子がひょっとこ顔をするようになったり、
 教師だった彼女が転落人生のけっかけとなる、後の恋人(伊勢谷)で
 松子が担任だった生徒(広川)の修学旅行事件。自暴自棄となり
 父とけんかし妹を罵倒して家を飛び出し、最初の同居人となった
 本が書けず暴力を振るう八女川(宮藤)の自殺、そのつながり
 で愛人となった岡野(ひとり)のつまらなさ、殺した男(武田)
 のために刑務所に入って知り合い、親友となった沢村(黒沢)
 との幸せなひと時などなど、エピソードが満載なのです。

 同監督『下妻物語』は映像も奇抜だし、笑いのツボもたくさんで
 凝りに凝った映画だなぁという印象でした。
 そして今回、オープニングからしばらくまでは同じ調子が
 続いている感じ。シチュエーションコメディで2時間か、と
 少し心配になっていたのです。
 けれど、彼女が刑務所に入って親友となる沢村めぐみが
 登場して以降、物語はぐんと面白くなっていきました。
 『下妻』は女同士の熱い友情の物語でもあり、その血は、
 いい意味でこの作品にもドクドク流れ充実させています。
 挿入される唄も聴き応えあり、心象風景を誇張して極彩色
 にした映像、加工した美しい青空や夕景が目に映える。

 松子は、無骨な父親の愛情に気付けません。
 彼の愛情は病弱な妹にのみ注がれていると思い込み、
 故に妹からの愛情にも気付けません。
 また、彼女を嫌っていると思い込んでいる生徒を邪険にし、
 彼の素直になれない恋心ゆえに彼女は転落します。
 愛を得られたかと思えば、それはうすっぺらなプライドの
 産物であったり、小市民的な薄いものであったり。
 また、愛ゆえに彼女を避けることもあることにもやはり
 気付けず客観性・社会性を放棄してしまうのです。

 難しいのは愛すことよりも、愛されていることに気付けるか、
 という点にこの物語は収斂していきます。そして同時に、
 真に相手を思うことはどういうことかを示す。
 わいわいがやがやいちゃいちゃしているだけで、真に
 愛し愛されているかは別、それは互いにその気になっているだけで
 一定条件を満たす状況(形骸)が愛(内実)を生み出すものだと
 勘違いしている人々でこの世は溢れている、と。 

 美しいシーン。 
 女生徒と共に筑後川の船上で合唱している松子の姿をみて、
 けんかの真っ最中に胸をときめかせる龍。
 松子を失い、ぼろぼろになって彼女殺しの罪をかぶろうと
 荒川沿いで警官相手に暴れる龍は、そのいつかの光景を荒川の
 上に再び視るのです。松子が一人涙を流しながら故郷を懐かしみ
 荒川を筑後川に重ねてみたように。
 
 ほんとうは「こんな作り物の映画!」とさらっと流せれば
 かっこいいのでしょうが、そうできない自分の愚かさ未熟さ
 を痛感します。『プロミス』の再現、最寄り駅から自宅まで、
 片目から液体がポロポロ落ちるのをとめられませんでした。
 恥ずかしいです。夜でよかったです。
 一見の価値ありです。


 蛇足:
 松子が一時帰郷し、子どもの頃の笙に出会って兄に早く帰れ
 といわれて立ち尽くす駅。福岡のはずなのに、駅にかかっている
 代ゼミの看板には撮影地の「伊勢崎校」の文字。
 あれだけ映像に凝っているのに、こんなことがあるのかと
 目を疑いました。


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June 07, 2006

しあわせな補完的夏体験 『すいか』


 2003年の夏。
 その夏は「雨が多く暑くない夏だった」と記憶しています。
 なんでそんなことを覚えているかといえば、
 今、日テレで再放送がされているドラマ『すいか』は
 その年の7月の頭からスタートし、ドラマの中、
 毎週土曜日夜の、テレビの向こうでは理想的な夏が
 広がっており、テレビのこっち、現実の夏は
 なんともじめじめした夏だったからなのです。  

 数カ月前、木皿泉というこのドラマの脚本家が一人の
 女性ではなく、男女、おじさんおばさんの二人で一人の
 ペンネームだと知ったときは驚きました。
 朝日の夕刊に、確か『野ブタ。をプロデュースする』に
 関してインタビューを受けていたと思います。
 「木皿」さん、この『すいか』で向田邦子賞を受けた
 とのことで、幼なじみの親友はDVDまでもっているほど、
 とてもはまる物語なのです。

 小林聡美、ともさかりえ、市川実日子、浅丘ルリ子
 高橋克実、金子貴俊、もたいまさこ、白石加代子、
 小泉今日子をメーンに、片桐はいり、井沢健、須賀貴匡
 なども客演していました。
 東京・世田谷区 三軒茶屋にある、市川がのんびり経営する
 まかない付きアパート「ハピネス三茶」を舞台に、
 万年事務信組員の小林、双子の姉を亡くしたお嬢様だけど
 家を出てエロ漫画家をやっているともさか、いつもまっすぐで
 妖艶な雰囲気と共に抜けている大学教授、浅丘。そこに
 小林の同僚で3億円使い込んで逃亡している小泉、なぜか
 いつもいる情けないおやじ高橋、ともさかに思いを寄せる金子、
 飲み屋「泥舟」の寡黙なもたいと井沢、小泉を追い詰めつつも、
 小林を通して一筋縄ではいかなくなる刑事片桐とその部下須賀が
 からみ、そしてなんといっても、小林の母で子離れできない
 白石が印象的です。

 3年前このドラマをみて「あぁ世田谷に住んでよかった」
 「三茶の近くでなんだかうれしい」と、かなしいかな
 埼玉のベットタウン出身の僕は思うでした。
 都心に近いけれど田園もあり、のんびりと世田谷線が
 がたんごとんと走っていて、四季を感じられる生活。
 そこに住まうぱっとしない女性陣が、世間的にぱっとしない
 だけで共感溢れる、静かで力強い言葉、あたたかい言葉が
 浅丘演じる大学教授を中心に語られるのです。
 どんな生き方も、良し。と。

 そう3年前。日テレの報道局内で働きながらも、今以上に
 自分のやりたい仕事とはかけ離れた仕事にどっぷりつかり、
 そんな日テレだけどドラマは面白いし、ドラマは虚構なのに
 しっかり現実を描いている一方、実際の僕はじめじめした
 夏の中でありたい自分と乖離した虚構の自分と感じるような
 生活をしていたのでした。
 そんな思いが、映像のけだるい甘美さと物語の切なさ、
 当時と今の苦い思いがない混ぜになるドラマです。
 皆さんには、そんなドラマがあるでしょうか。


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June 06, 2006

ルサンチマンの連鎖


 きのう朝日夕刊で、一橋大教授 内藤正典氏がオランダの
 移民難民問題についての文章が掲載されました。
 ソマリア移民の女性国会議員(自由民主党VVD)がその移住
 過程などに虚偽があったとテレビが報じ、それを鵜呑みにした
 政府が彼女から国籍を剥奪。しかしこれが欧米諸国から反発を
 受け、政府は国籍を再交付したものの時遅し、彼女はオランダ
 を去り米国の保守系シンクタンクに移るという事象があった、と。
 
 ―多文化主義による異文化との共生をうたってきたオランダ
  社会では、ここ数年で、寛容の限界を指摘する声が高まった。
  自由民主党は、彼女の発言を利用して、オランダ社会に統合
  されないイスラム教徒を批判し、多文化主義政策の破綻を
  追及してきた。押し付けがましい規範を拒否する自由主義
  (リバイアタン)政党であるから、イスラムのように明快な
  行動規範を持つ宗教を嫌悪する。〜略〜
  彼ら(※オランダ自民党)は、自らを偏狭なナショナリズムに
  基づく「極右」とは考えていない。危険性はここにある。
  むしろ、自由を希求する人々が、閉鎖的環境のなかでの快適さを
  求め、異文化との疎ましい共生を拒絶するために「内なる壁」を
  築こうとしているのである。だが、帰結はゼノフォビアの
  表出でしかない。しかも、人権と民主主義に反するイスラムへの
  嫌悪という大義名分を掲げるので、ゼノフォビア(※外国人憎悪)
  が隠蔽される構造にある。―

 ここにみられる移民問題は近い将来、日本においても直面する
 課題になるでしょうし、移民国家アメリカでも南米等からの
 移民対策としての移民法案が大問題となり、同時に9・11以来
 アラブ系住民への過剰な反応(安易な拘束等)が定着しています。

 僕がこの文章で一番気になったのは、やはりオランダもか、
 ということと「隠蔽構造」の二点。
 まず、交易国家であり人の流動によって活力を得てきたオランダ
 においても、やはり排外主義は存在し、強力な勢力になって
 いるという現実です。つまり、「自由の国 オランダ」の、
 その「自由」はあくまで「在来住民にとっての自由」であり、
 内藤教授の指摘する米国ネオコンに近いのだということ。

 そしてもっと気がかりなのは「大義名分」を掲げて、その本質を
 覆い隠してしまう二重構造です。
 イスラムの反民主主義性を掲げて移民排斥を実行する、という
 実例のように、日本においても国民を守るという大義名分の下で
 さまざまな言論や行動にかかわる自由規制が、国民・マスコミ
 問わず実施されつつある。
 その分かりやすい例がPSE法ではなかったでしょうか。
 国民を電気製品の事故から守るという名の下、実際はいわれの
 ない規制を強いるものだったではないですか。

 オランダから去った女性が、アメリカの保守系シンクタンクへ
 移籍したことも皮肉な結果です。よく知らないので分かりませんが、
 彼女がそうした待遇を受けた「反動」によってネオコン強化の
 側にまわることもあるのです。
 ルサンチマンは、ねじれた形でしか「表出」しません。
 遺恨の連鎖。弱者を追い詰め、猫を噛む鼠に仕立ててしまうのは
 あまりに悲しいこと。
 もちろん、ここで問題とされることは簡単には解決できない
 からこそ問題なのですよね。だからこそ、冷静に引き寄せる。
 大義名分による思考の切り離しの‘禍’を、改めて思いました。

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June 05, 2006

世界を見た目 


 きょうは去年に引き続き、誕生日の近い友人と互祝会を
 開きました。
 とりあえず、年の差の離れ具合には触れません。

 会場は、たまたまみつけた自由が丘のハンガリー料理の
 お店にしました。ロシア料理は好きなのですが、
 ハンガリー料理は初体験。
 ほぼ予想通りな感じでしたが、丁寧な味で肉の煮込みは
 トマト基本。パンとワインが合うおいしさでした。  
 
 彼は、出自(お父様は旧ヴェトナム貴族)というよりも
 彼の個性として、話せば話すほど面白い話が聴ける若者です。
 印象に残ったのは、幼少期を過ごしたヴェトナムの田舎での
 ワンシーン。話の流れは異国では鼠も猫も犬も食べてしまうという…
 雨季。ヴェトナムはメコン川が氾濫すると、残った小さい浅瀬に
 畑に住む鼠さんたちが大挙して集結しているそうです。
 その様子がどうやら凄まじいらしく、きっと僕や皆さんの
 想像している風景とは違うのでしょう。
 そんな光景を実際目にして、パリにも住み、ヨーロッパ全域を
 幼少期に旅した彼の経験はやはり稀有であるなぁ、と。

 かわいい子には旅をさせよ、といいます。
 子どもの頃の一人旅ということで自分についてを思い返せば、
 中1か小6のときにブルートレインで福岡へ。
 福岡博(よかトピア)に、当時絶好調だったセゾングループが
 パビリオンを出展しているということで、ぜひ見てみたい
 と思ったのです。‘85年のつくば博には10回以上行ったことも
 あるでしょう。おぉバブル前夜! 
 長い長〜い列車の夜、食堂車で相席したおそらく30歳前後の
 おねえさんに誉められてうれしかったことをよく覚えてます。
 パビリオン自体はちゃちでがっくしでしたが(笑)
 
 と、せいぜいそんなもので彼とは比べられませんね。
 まだ多くのすり込みがない状況で、世界をみることの意義。
 フランスやイタリアへ向かう飛行機の中で子どもたちが
 楽しそうに走っているのを目にすると羨望。
 ただ、やはり重要なのはその経験を自分の中にいかに
 沈潜させられるかという個性に戻ってしまうのでしょうが。
 小さいときにペットを失う経験に似ているかも。
 多くの経験と共に、そうした感覚が涵養されるのが理想ですね。
 教育基本法改定では、子どもたちは変わらんです。


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June 04, 2006

アカシックレコードからの漏洩  『予言』

 

 きょうは日曜日なのに秋田の事件の容疑者が逮捕されるか、
 村上世彰氏が逮捕されるかで準備して緊迫感ありあり。
 でもはじけることもなく、準備済みの実名報道は控えられました。
 さきほど、NHK教育の日曜美術館「丹下健三」特集をみながら、
 友人から去年いただいて大事にとっておいた、シリコンバレー土産の
 ナパの白ワインを飲み、そのフルーティさに感激したばかり。

 ◆

 先日、映画『水霊』を「収拾できなくて夫婦愛に逃げた」と
 酷評しました。
 しかし結構他にもそうした例はあって、例えば、もう
 かなり昔に観た『パラサイト・イヴ』は、原作を読んで
 いたせいもありますが、その結末に腹が立って仕方なかった。
 何せ主題が「ミトコンドリアが人類に対して反乱を起こす」
 というとんでもないスケールの話なのに、楽しみにしていた
 破局寸前でちゃちな「愛」の話になって収まってしまう!!
 劇場で、なんじゃこりゃ!叫びたかったですホント。

 とは言えです。僕は夫婦/親子愛が嫌いなわけでは全くなく、 
 大切なのはその描き方なのです。
 そうした点で、以前からいつ紹介しようかしようかと思っていて
 とっておいた作品があります。2年前に劇場で観た『予言』です。

 鶴田法男監督、三上博史・酒井法子・吉行和子・山本圭ら出演。
 同時上映だった『感染』はゴミなので触れません。ほんとうは
 『感染』のほうに期待して観たのですが、実際は怖くもないし
 凝ってもない。『予言』とは比べものになりませんでした。

 物語は、つのだじろう原作『恐怖新聞』がもとになっている
 ようです。それは、アカシックレコードとつながった者が
 書き出す、死を予言する新聞が届いてしまう。それを書き出す者も、
 読んだ者も不幸なのです。
 三上博史演じる大学講師の父親が実家からの帰途、パソコン
 からデータ送信するために公衆電話ボックスで途中下車。
 娘さんは裾がはさまってシートベルトが外せず、酒井法子演じる
 妻が夫を呼びに行って車外に出たところに心臓麻痺で意識を失った
 運転手が乗ったトラックが衝突。車は、娘さんもろとも炎上…
 父は、その寸前に娘さんの死を報じるくしゃくしゃの新聞の
 切れ端を見つけ、読んでいたけれど…

 霊能者役の吉行和子さんが好演、酒井法子さんの事件後の
 濃い化粧に悲しさを感じ、父・三上の熱演は言うに及ばず。
 やけただれて夢に出てきた娘さんを前に、彼が泣き崩れる姿は、
 そうした亡霊はおそろしいどことろか、むごいということ。
 「化けてでも出てきて欲しい」が本音なのです。
 よく出来た脚本です。終盤に向けて一つ一つ積み上げて、
 父の「選択」へとつながっていきます。

 彼は、新聞に報じられた未来を変えてはならないという
 死者からのメッセージを退けたために異世界へと落ちます。
 そこで、彼がもっとも思い出したくない瞬間、つまり彼が
 娘を失った現場に何度となく連れ戻され、彼は助かる努力を
 しますがまた電話ボックスに戻っている。
 そこで、夢に現れた霊能者の「選択はあなたがするんですよ」
 という言葉の意味を悟り、迷うことなく「選択」をするのでした。
 これは、自身が事故にあったり、大切な人を亡くした瞬間に
 出くわした人の経験そのものだと思うのです。
 苦しみは悲しみは常に繰り返し、その人の中では何度も何度も
 事故に遭い、何度も何度も大切な人を失うのです。

 この物語の終結は、救いだと思います。
 実際には出来ない、我が子を亡くした親の、せめて身代わりに
 なってやりたいという思いへのオマージュ、手向け。
 米山豪憲君のお母さんが、息子が打ち捨てられていた現場から
 ずっとずっと立ち上がれなかった姿が目に焼きついています。

 福知山線事故の凄惨を「予言」するシーンがあり、
 それこそが恐怖でした。



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June 03, 2006

展開の集約、傑作越えの 難しさ



  livedoorシステム不具合のために更新が出来ませんでした。

  ・・○

  水曜日昼間。テレビ東京で『遊星からの物体X』を
  放映していました。
  同作は1982年の作品で、B級ホラー映画の“名”監督
  ジョン・カーペンターの傑作です。
  
  僕が同作を初めてみたのは小学生の時だったと思います。
  当時、まだとてつもなく怖く感じられたものです。
  今思えば『オーメン』『ポルターガイスト』はテレビで、
  『フェノミナ』『トワイライトゾーン』を劇場で鑑賞、
  なんと良質で傑作ホラーを観ていた小学生だったのか(笑)
  さらにNHKで小泉八雲/ラフカディオ・ハーンの日本での
  生活を描いた連続ドラマ(確か壇ふみさんが出てました)で
  彼の著『怪談』再現ドラマがあってそれも強烈でした。

  話を戻しましょう。
  『遊星からの〜』の筋は、大昔に地球・南極に墜落した
  宇宙生物をノルウェーの南極隊が発掘。基地は全滅し、
  生き残りの隊員が、犬に変化した宇宙生物をヘリで追尾、
  アメリカの南極基地にやってくるところから始まるのです。
  米国南極隊員は「頭のおかしなヤツが犬を撃ち殺そうとしている」
  としか思えず、銃を乱射する彼を射殺。宇宙生命体はまんまと
  基地に入り込み、次々隊員が餌食なっていくのです。
  見所は物体Xのとんでもない変態ぶり(死体から頭だけ
  離れて八本足が生えたりします)と、南極基地という
  隔離された場所で誰がいつ物体Xにとって変わっているのか
  誰にも分からない疑心暗鬼。
  また、科学者は気付きます。もしも宇宙生物が外界に出たなら、
  あっという間に地球は乗っ取られてしまう。
  隊員たちはどうすればいいのか?

  今、改めてみても実におもしろい。
  化け物の禍々しい造形はCGではないからこそのリアル感。
  ノルウェー基地の外で、人間の姿をとどめていない焼かれた
  死体をわざわざ基地内に持ち帰る科学者の外れた感覚。
  (研究すればノーベル賞とかいってる。そりゃそうだ)。
  映画『エイリアン』で社員を犠牲にしてでもエイリアンを
  地球に持ち帰り研究し兵器にしようとする会社の利潤追求、
  科学者の野望と相通じ、80年代前半という時代がSFを通して
  体制批判をしていのかと思えるのです。
  そして、「事は世界の危機」というよくある大風呂敷が、
  実に説得力をもって物語り後半をしめていくのです。


  一方、木曜日、『水霊―みずち―』という邦画を劇場で
  観ました(監督・脚本:山本清史/井川遥、渡部篤郎、
  三輪ひとみ、でんでんが出演)。1000円。
  こちらは神話に引っ掛けた「死に水/水霊」が地震の
  地殻変動によってダムのそこから湧き出し、それを
  研究していた大学教授、その井戸水をろ過して水道水として
  飲んでいる東京多摩の住民たちが自殺していく。
  その事件に気付いた新聞記者(井川)と離婚した水道局の
  水質研究所員(渡部)がけんかしながらも解明していく、
  という物語です。
  なんとも『リング』まがいの設定(マスコミ妻/学者系夫で
  離婚済)で、同時進行の被害者も女子高生…ぱくり過ぎ。
  くわえて結局は夫婦愛でどうのこうのという話に。
  ホラーとしての要素も、古事記(日本書紀だったか)の呪いが
  なんで奥多摩で復活するのかまったく曰く因縁が分からないし
  (確かに、神話と架空の町名が符合しているけれど)、
  水道水が原因で自殺者が徐々に増えていくという設定は
  描かれてもどうもよく分からない。怪現象以前から井川が
  精神を病んでいるらしく、それはそれで深刻なのに、
  ごっちゃになるから事の自体の焦点がぼけてしまう。

  彼女は「私の目に映るこの現実は、他の人間にも本当に
  同じに映っているのか」という台詞をいうのですが、
  彼女が見えないものが見えているのは彼女の主観の問題で、
  多くの人は呪いの水によって見えいなかったものが見える
  ようになるというのですから、これは二重ではなく並行した
  構造であり、それがうまく機能していない。
  水を飲んで呪われるから見えないもの(霊)が見えるように
  なってしまう、という設定が台無しなのです。
  今さっき監督(脚本も)の経歴をみたら明治学院大心理学科卒
  とのことで、それで読めた気がします。“深み”を与える
  つもりで心理学や認識論系の主題を織り込んだものの、
  消化出来ずって感じ。


  2作品ともほっとけば破滅的な状況がどんどん広がる、
  という大風呂敷ものですが、前者は物語をどんどん集約し、
  後者は拡散に拡散を重ね、演劇理論でいうところの「真実らしさ」
  にまったくかけるということです。ホラー映画で、真に迫る
  ことがなかったなら、我々は一体なにに恐怖するというのか。
  収拾がつかなくなって個人的な錯覚/精神の問題と、
  こちらも描写の足りない夫婦愛で逃げ切ろうとするのは、
  まったくバカげています。

  『リング』は、いわば日本ホラーの『エヴァンゲリオン』でしょう。
  ビデオオリジナル版『呪怨』や『エウレカセブン』のように、
  それぞれを超克できる監督もいれば、はまって抜けられない
  人もいるのだと、つくづく思った水無月のはじめでした。


reversible_cogit at 13:48|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)映画